2006.2.27
佐藤賢太郎

「七人の侍」 ぎゃらりー和彩館にて上映と鑑賞

2006年2月18日、まさかコスモ夢舞台のぎゃらりー和彩館で映画を上映するなんて考えもしませんでした。会員の熱く夢に寄せる想いのおかげさまで、地域の皆様を招待して上映できました。

かつて、どこかで観たことはあるのですが、こんなに深く観て、感じた記憶がありません。
ストーリーはシンプルで、貧しい村に収穫が終わると野武士が毎年やって来て、収穫物や女を略奪する。それに対して、農民はただ泣き寝入りをしているだけだったが、やがて、野武士から村を守ろうと立ちあがり、浪人をしていた7人の侍に助っ人をお願いし、協力して野武士を滅ぼして平和な村にした。という内容でした。
映画を観てふくろう会会員数名と地元の方と一杯飲みながら鑑賞後の感想を述べ合いました。

まず、どうしてこの「七人の侍」が選ばれたのか。あまりにも周囲を取り巻く状況と映画の内容が似てはいないか。意図的に私が選定したのではないかと言われました。そうではなく、会員の加藤さんから「七人の侍のビデオがあるよ」、と言われ、懐かしくて、世界的にも有名な映画ビデオをぎゃらりー和彩館で初めて上映する運びとなりました。
「七人の侍」の何処が身近なことなのか。黒澤明監督が言わんとするところの美学について私の感想を述べます。

その1 人間の美学 
村を守ってくれるような浪人武士を農民代表が集めようとするが、なかなか応じてくれる武士はいない。それもそのはず、雇われて、命がけで村を守ったとしても、金をもらえる保証は無い。貧しい農民にはお金がないからだ。更に地位や名声をつかめるわけでもない。唯一、農民でさえ食べられない白い米を食べられるというだけである。普通に考えたら、これだけの条件では賛同する武士がいるはずもない。

黒澤明はそこに人間の生きる美学を打ち出しています。目先の得にはならないが、困った人のために立ち上がる人間もいたという設定です。
それに比べて現代はどうでしょうか。ライブドアを初め、不祥事や不正のニュースが立て続けに報じられます。すべてが目先の利益や金、名声ばかりに目が向いています。もはや、私たちのいる社会には人間の美学のかけらもないが、だからこそ大切だと黒澤明は言いたいのではなでしょうか。

その2 組織に大切なもの 
組織には何が大切かと言うことだが、腕の立つ武士ばかりが集まれば勝てるかといえばそうではないし、実際にはそんなことは出来ない。

7人の侍の中には、すごく腕の立つ者もいたが、そればかりではない。剣術、戦闘能力は中の下なのだが、人を笑わせる能力があるということで取上げられた者がいる。またある武士は、村人には関心がないが、リーダーの人間性に惹かれて付いていくという者もいる。また、農民出身で自称武士という粗雑で乱暴者役の三船敏郎の存在、これをも引き入れていく7人の侍集団。

ここには、組織のあり方の美学があります。いわゆる、一律に偏差値が高いものが集まれば、組織は成功するのではない。みんな組織には必要な存在であり、必ず良いところを持っていて、お互いに認め合っていく生き方こそが大切であると言いたいのだと思います。

その3 風土が作る人間 
やっと集めてきた武士たちを待っていたのは熱烈な歓迎ではなく、ひっそりとし村の光景だった。村人たちは誰も迎えに出ようとはしないで、陰に隠れて様子を見ているだけである。なんだこの態度は、村のために俺たちがせっかく来てやったのにと、粗野な役の武士三船敏郎は怒る。

村人は体質的に、知らない人間やよそ者には疑い深く、警戒心を一杯抱く。そして何時もうじうじしている。これも厳しい環境、風土が生み出す所産なのか。
ためしに、野武士の襲来を告げる呼子を鳴らすと、蜂の巣をつっついたように村人が出て来て、お侍さん、助けてくれと言う。いかにも日本の農民、いや、ペリーの黒舟来航を恐れたときのように、外の力に弱い日本人の体質そのものを感じた。

私自身が村に仲間を連れてきて、自分の土地だからと言って勝手な振る舞いをして、何かをやっている。地域の人には、何も相談をしないその手法がよくないということも耳にしています。地元の人も、私が何色をしている人間なのかわからないと批判や疑心暗鬼の目で見ていたのではないかと思います。
そのことが、この映画と偶然にも重なりあってしまったのです。仲間の会員や地元の一部の人からどうして「七人の侍」の映画を選定したのかと問われた意味がここにありました。

その4 武士の美学 
戦略として、野武士から種子島つまり、危ない鉄砲を奪うことが先決だと言われるとそれを実行する武士がいた。命がけの行動である。固唾を呑んで待っているとやがて、その武士は種子島を持って無事に帰ってきた。みんなに誇るでもなく、静かに腕を組み、休養をするその武士の姿に若い武士が「あなたはすごい人だ、尊敬します」と言う。「何が……」と応えただけで仮眠を続ける。

すると粗野な役の三船敏郎は俺も認められたい、手柄を立てようとして、種子島を奪いに行く。運良く成功して帰ってくる。ほめられると思ったところが、リーダーからは自分の部所を勝手に離れたと言って叱られる。割に合わないとふてくされる。 

目立ちたい、注目されたい、褒められたいという人間の心理が見事に表現されながら、それだけではないんだという武士の美学を見せられた思いがします。

その5 農民、人間の心理
あれほど恐ろしがられていた野武士が武士たちの策略にかかり、そのうちの一人が落馬した。

村人の前に晒されたとき、今度は、野武士が震えおののき命ごいをする。武士は痛めつけるのは程ほどにしろと農民に言うが、情の一かけらもなく、寄って、たかって、殺してしまう。

蛇を殺すときのような怖いものに対する裏返しの心理もあるのでしょうが、浅ましいものです
相手が弱いとみるや徹底的に叩く心根。それにしても人間の生き様がよく出ていました。
私も何かミスをすれば、そこまでは行かないにしても、このように叩かれるのだろうかとふと、思ってしまいました。

その6 ラストシーンに思う
野武士は全滅し、7人の侍も生き残ったのはわずか3人、残ったリーダー曰く、嬉しそうに田植えをする農民の姿を見て、「われわれが勝ったのではない。農民が勝ったのだ」と結んだ。
内容はとても深かったが、最後の閉じ方には少々、満足出来ませんでした。
このラストシーンの言葉を言いたかったわけではないのではないかと思いました。

ドラマや小説にしても結びは何れにしても難しいものです。これと比較して井上靖原作「敦煌」の結びが素晴らしかったことを思い出します。それぞれの人間が欲望に走った最後の場面。主人公が戦いに翻弄され倒れたとき、ふと、目に入ったのは水たまりにメダカが泳いでいるシーンでした。

その6 まとめ 
いったい7人の侍、野武士、農民とは誰を指すのか、私たちはどの役を演じているのだろうか。私たちはどんな美学を持った登場人物なのだろうか。そのことについて仲間と話しました。

あるところは7人の侍だが、ある面では農民の体質があり、別の面では私たち自身が野武士ではないのかという意見が出ました。
さらに、野武士とはせっかく作った野菜を根こそぎ取ってしまうサルではないか。はたまた過疎化という現象をみたとき、モノではないが人を村ごとかっさらって行くという点では大野武士集団であります。全国規模で過疎の村が次々と消えていると聞きます。
このままでは、豊実の地域もいずれ消えて行く運命にあります。次の世代が残らない現在、人は減ってゆくのみです。やがて離村するしか方法はありません。では、どうすることが地域を守ることになるのでしょうか。そのときが来てからでは手遅れです。

それには、夢を描き、創造力を発揮して、新たな挑戦をする。地域が夢を抱く外の人を受け入れていくことなくして新しいことは生まれません。それしか、生き残る道はないのです。
といっても、財政的には国にも自治体にも多くは望めません。少ない予算の中で、しかも魅力ある地域つくりをしなければ人は来てくれません。 
だからこそ、私たちが創っている「コスモ夢舞台」に意義があると思います。

日本人はこれまで、護送船団方式で守られ、隣の人のふりを見て、それに合わせて保身の行動をとるのが一般的でした。今までは、これが一番安全、安心な生き方だったからです。
しかし、従来通りのこんなやり方ではやがて、行き詰まります。新しい魅力も生まれません。
ただし、改革が必要といっても、マスコミを賑わすような錬金術的発想ではありません。
直面するこうした危機にどのように対応したら良いのか、国も地域も企業も組織も個人も同じ課題を抱えていると思います。

それにしても、この映画を見て、これだけ語れる朋がいる。それが私には大変嬉しいことなのです。