2017.10.16
久々のご対面
佐藤賢太郎

 西会津町の多目的ホールへ二度行くことになった。一度は「さゆりジャズコンサート」です。知人より誘われて、いつかジャズ団をお呼びしたいと思って出向きました。

二度目は「縄文の西会津」というシンポジウムに誘われたからです。世界的に活躍されている高名な小林達雄先生が基調講演をされるということでした。私は小林先生には3回お会いしていますが、お誘いいただいた方は、「蔵・銀河」に縄文土器をお借りしている佐藤光義さんです。

 小林先生の講演をメモした範囲で、ここに述べます。

1、縄文時代は今より温度が低く、日本列島にもナウマン象が住んでいた。

2、世界に先駆け、縄文人は土器を作った。漆も発見した。大陸になかったそうです。

3、土器を作ったことで、生で食べられない物を人間は食べるようになった。どんぐりもタンニンがあって生では消化できない。ベーター澱粉がアルファー澱粉に変わるそうです。こうして人間は煮炊きすることで、多様なものを食べられるようになった。

4、土器をつくるようになって、定住できるようになった。

5、世界的に見ても縄文時代の日本列島は人口密度が高かった。

6、人口密度が高いということは、ヒラメキのある人間が出てくる可能性も高い。

7、発見とは積みあげの努力ではなく、ヒラメキである。縄文土器の突起した造形はそういうものです。

8、釣り針は縄文人が考えた道具であって、そのまま現代人も使っている、クジラをとるモリもそうである。

8、○や▽などは世界の人類が共通に考えたもので、話し合って作ったものではない、普遍性がある。

10、日本人は謙虚というか、そういう性格がある。私が考えましたとは言わずに、「これは誰々が言っています」という。

11、土器のような食べるための道具を第一の道具とすれば、何に使うか解らない、土偶、石棒、石剣のような道具がある。土偶は壊すためにあった。願いを込め成就するように作られた。そうしたものを第二の道具と呼ぶ。

12、言葉は文化である。縄文時代には言葉があった。

13、縄文の火焔土器は造形的にも凄いものである。芸術家の岡本太郎は、この縄文に感動している(考古学者として、私が初めて彼の存在を認めている)。火焔土器のルーツはこの会津にあると思っている。もたもたしているうちの上越の信濃川の方でしゃりっとした火焔土器を作ったようです。

14、擬音語をもった縄文人、自然と対話し自然の声が聞こえる。サラサラとか表現している。

 最後になりますが、小林達雄先生は80歳になるそうです。

「先が見えてきました。私も手すりを使います、時間が無くなってきました。考古学は歴史の究明というより、人間学の究明です」という言葉が、一番印象的であった。

 午後、パネラーによるシンポジウムが開催されました。それぞれ縄文の専門的見地で述べていたなかで、ひときわ違った人がいました。縄文のことは全然わからないという方です。芸術大学に勤めている准教授 伊藤達矢先生で、作品は社会とつながると言います。

その活動は、目が見えない、しゃべれない障害者が美術館に来て鑑賞する手助けをされているようです。そこで俄然私は興味をもった。視点が素晴らしいと思ったし、里山アート展につながるものを感じたからです。勿論里山アート展の紹介をしましたところ関心をもっていただきました。

 さて、懇親会に出席した私は小林先生の前に座った。先生の第一声は「佐藤さん元気かね?」で始まり、「人口密度が高かったから、あなたのような人が出てくる」などと言っていただきました。

そばには立役者の地元の佐藤光義さんが座っていました。こんな風に話せる時間がとても幸せでありました。佐藤光義さんも私も変な人間かもしれません。人に迷惑をかけない変な人が、革命的な新しいことを起こすきっかけを作ると思います。

私はこの席でいろんな方と話し、開催中の里山アート展に、ぜひお出でくださいとご案内しました。