2006.1.18
冬に縄文を想う・その2  
佐藤 賢太郎 

この住みづらい豪雪地方に縄文人は定住していたのか、という私の疑問、感想に対して森幸彦さんは、定住していたと回答下さいました。
なぜなら、雪の多い年は恵みを約束する。冬こそ動物の狩猟をする絶好のときであり、同じ土器が離れたところで点在していないことから移住した確証はないと回答くださった。
 

なるほどと思った。現代は冬でも車を走らせるように除雪をする生活になった。考えてみれば、私の小さい頃、電線に届くほどの高さの雪上をソリで運搬していた。そして自給自足に近い生活形態であった。

今のように、給油ができなくて、孤立して困ったなどとはあまり言わなかった。電気が来ないときは、ろうそくでしのいだこともあった。今は、快適な文化的生活になったがゆえに雪で停電になると大変事になってしまう。 

そう思うと縄文時代はもっと自給自足の度合いが高く、電気が停電して困る事もなかった。除雪も現代のようにしなくて良かったのか。そう考えると、今、私たちが困るほどではなかったのかもしれない。

ただ、竪穴式住居は雪でつぶれなかったのか。あの狭い住居で息苦しくはなかったのか。大型竪穴住居は全ての村にあったのか。住居は如何にして建て替えたのか。自分たちの地域内では、季節ごとに移動したとの説もある。しかし、住居を作る作業は大変な事だからそれも簡単ではないだろう。

縄文人の食に思う1

人間も動物も生きるうえで、一番真剣になるのは食の確保である。
雪国の生活はその季節には厳しいが、豊な恵みがあるということで、この雪ふる山の中に住んでいたのだろう。小林達雄氏によれば、縄文人の済力を支えていた鮭、ますや、どんぐり、栗その他木の実がたくさん取れるところ。現代風にいえば、自然豊かで収入がいいところなのである。

海には海の幸をいただけるところ。黒曜石が取れるところ。それぞれ住むところに幸があった。生まれながらにして、そこは、自分たちのために天から与えられた私有地であったと思った(動物たちのテリトリーのように)のだろうか。そこで物々交換しながら全国的に交流して生きていた。

ともかく縄文カレンダーに従い、季節に取れるその時々の食べ物を満遍なく食べ、ある種の動物や植物が絶えないように自然とともに生きていたようだが、なかなか賢いと思う。しかし、その生き方は、弥生時代以後の人間とは大きく異なるわけで、何故、そのような選択をしたのか。それが他を支配し、奪うとういことにもなるのだろうか。

私有制に思う疑問1

縄文時代に私有制度などないと思っていた。しかし「余所の領域を侵さないという掟」があったと森幸彦さんがお話されました。だからこそ縄文時代は争いが少なかったようだ。自らそのような選択をした生き方に大変興味深いものを感じる。

少なくとも内と外、自分の村と他の村では区別という線引きがあるはずである。だからよその地域に入らないのだとなると、それは私有ということになる。

1村10軒から20軒ぐらいの集団で100人位が最大の人口といっているが、多くなると分離しなければならなかった。すると分離した人間は西部劇で見られるように新地開拓に出るのだろうか。そうしたら人口が増えるごとに争いもおきるのでないか。もちろん分け与え共生して生きるとしたら別だが。

階層化・奴隷についての疑問

まさか私有制があったとは、それ以上に縄文時代に奴隷がいたなどと考えもしなかった。しかし小林達雄さんはそう言っている。その根拠として、共同墓地の中で、両手に10個以上ものブレスレットをしている女性が発見されたとしている。こんなものを付けていたらとても労働はできない。だから誰かこの女性の世話をする人間がいた。そして身分制があったと指摘しているが、驚きである。

もちろん何でも平等という事では、あれだけの文化を誇る組織は動かせないだろうし、それぞれの人間には役割があったのであろう。たとえばシャーマンのような存在もあったことは想像できる。また、奴隷といっても鎖をつけられ、鞭で叩かれながら働くあのようなものでないと思うが、奴隷はどうして生まれたのか。戦争で負けた村の人間なのか。能力のない人間なのか解からない。しかし、ある方は「縄文人は障害ある人間を暖かく見守っていた形跡が伺える」とも言っている。

土偶はなぜ作られたか

彫刻をする人間としては、
あのような土器や土偶がなぜ作られていたかということに大変関心がある。
土器はとても精神性の高いところから発せられていることに驚くが、土偶は、尚更、精神世界の高さがあったのだろう。土偶は一般的には、五穀豊穣をまた、病気や怪我とかそうした部位が回復するように願って作られた。
再生する事を願って土偶のその部分を壊す。ことに土偶が女性であるとしたのは、男性にない再生(生む)能力を持つ存在であるからと言っている。

しかし、土偶は第2の道具といって、斧や石器等のような目的を果たすための道具ではない、目に見えない祈りや願いを達成するための道具であり、縄文人の雛形でもない。女性でも男性でもない精霊、観念上の存在だから、目や鼻、口のない、なんだかわからない土偶の姿があると小林達雄氏は言っている。
いづれにしても縄文人に聞いたわけでないから事実はわからないはずである。 

私は今のところ感覚的に土偶は死と再生のために作られたと考えたい。もちろん素人の私は考古学者のように事実的根拠の積み上げがあって言っているのではない。

素朴さの原点を考えると日本の石仏がある。地蔵、路傍の馬頭観音、道祖神、さいの神等々、庶民の願いをそこに託したもの。決して、芸術品を作ろうとしたものではない。そうだとすれば土偶も願いであろう。何の願いなのか。このことは今、結論は出せない。これから縄文人の精神生活を考えながら自分の答えを見つけてゆきたい。