2010.04.05
ギリシャの正夢 その2 歓迎会とお礼の会
森 紘一

 3月28日(日)の昼下がり、アマリアーダのリゾート地クルータの町にあるレストランは、家族連れで混みあっていた。さらにそこに20名近い団体客が入り込んで、大にぎわいとなった。リオシス夫妻とバジリス夫妻が我われを招待してくださった会場は、4年前、佐藤さんがよく利用した『ギリシャからの手紙』にも登場するディノさんが経営するレストラン「アヒリオン」だった。

 海の見える窓側に白とブルーの布が敷かれたテーブルには、すでに盛りだくさんの料理と果物、飲み物などが用意されていた。我われは、あらためてリオシス氏から熱い歓迎の挨拶をいただき祝杯をあげた。異国での白昼夢の酔い心地は最高だった。 

 実は昨夜、わたしは佐藤さんと同室だったのだが、明け方4時半過ぎに気がつくと佐藤さんは黙々と書き物をしていた。返礼の挨拶やお土産を渡す段取りを考えていたということだった。‘何事も下ごしらえが大事’とは佐藤さんの口癖だが、リオシス氏への佐藤さんの限りなく厚い感謝の気持ちを感じた。

ギリシャ語と英語で書かれたオリンピアの遺跡と彫刻の分厚い写真集が、リオシス氏から佐藤さんに贈呈された。表紙裏には“愛をこめて友へ”とギリシャ語と日本語(?)でリオシス氏がサインを記した。                        

豊実から仲間たちのリレーで運び込んだ五月人形の『龍神』も、無事リオシス氏の腕に抱かれた。全員で合唱した「さくら/さくら」には「ブラボー!」の声が上がった。隆雄さんの尺八と塚原さんの横笛も我われのメッセージとして花を添えた。

 「Mr.佐藤は素晴らしい彫刻家であり、人間としても素晴らしい。Mr.佐藤の連れてきた友人は、我われの友人である」リオシス夫妻とバジリス夫妻の表情は、終始にこやかだった(もっとも当初は、Mr.佐藤が弟子の少年たちを連れてやってくると誤報されていたふしもあった)。さらに景子女史の通訳によると、日ギ友好記念公園や佐藤さんの名誉市民への推薦がアマリアーダ市では検討されているという。

国境を超え、言葉の壁を超えて結ばれたリオシス氏と佐藤さんの友情のあかし、それこそが「ゴルゴーナ」であり、その輪がさらに広がろうとしていることは、我われにとっても新たな喜びである。

「アヒリオン」の前庭で記念の集合写真を撮った後、当時の制作現場のアトリエ跡を通って、佐藤さんと前後して参加された日本人彫刻家片桐さんの作品を見学しながら海辺を歩いた。さらに、佐藤さんが当時宿泊していたフォーシーズンホテルへも足を伸ばした。

往時を思い出すかのように、佐藤さんの表情もなごんでみえた。その後、我われは来た時と同じようにオリンピアのホテルまで、バジリス夫妻に送り届けていただいた。

3月29日(月)。オリンピアで三日目の朝を迎えた。明るくなるのは7時半と遅いが、窓を開けると小鳥のさえずりがさわやかな青空だった。

朝食時に景子女史から、昨日の別れ際の約束通り、今夜リオシス夫妻がもう一度会いに来るというニュースが入った。きょうは一日自由行動の日で、夜はみんなで会食の予定だった。それでは、リオシス夫妻を囲むお礼の会をということになった。午後6時までに戻ることを決めて、各自思いのままに羽を伸ばし、骨を休める休息日となった。

佐藤さんたち遠出組が、昨日の様子を報じた新聞の束を抱えてクルータから戻ってきたのは夕刻近かった。さっそくギリシャ語の新聞を景子女史に訳してもらい、佐藤さんと我われが地元でも歓迎され、注目されていることをあらためて知らされた。

 アマリアーダから、リオシス夫妻とバジリス夫妻は8時過ぎにホテルに到着した。一日の仕事をやりくりして駆けつけていただいたことに、まず佐藤さんから感謝の言葉がでた。博識なリオシス氏は、いくつかのギリシャ神話を例えにひきながらギリシャのお国柄を語り出した。また、日本の文化や歴史についても詳しく、現代につながる広島や長崎の原爆から映画監督の黒沢作品にいたるまで話題は豊富だった。

 リクエストのあった尺八は、隆雄さんが「荒城の月」を、塚原さんは「祭り囃子」をご披露した。最後に全員で、塚原さんのハーモニカの伴奏で「ふるさと」を合唱した。聖地オリンピアの麓で、まさかの日本唱歌がゆるやかに流れた夜はいつ果てるとも知れなかった。

 余談ながら、オリンピアパレスのオーナー社長は景子女史と一緒に、我われのお礼の会の準備に何かとご協力をいただいたようだ。その上お開きの後、隆雄さんと塚原さんを呼んで、ワインのサービスでその労をねぎらってくださったそうである。

 今では日本人も失いがちな人情の機微を、ギリシャのオリンピアの地で味わい教えられたことも思い出に残る体験であった。