2009.8.16                         
リトアニア紀行9                      
佐藤賢太郎

私はカウナスでのさまざまな嬉しい人との出会いを後にして、一路バスでビリニュスに向かった。途中までパトカーが私たちのバスを先導して、特別に道を開けてくださった。

   バスの中で、写真家のハンスさんと来年の新潟県の写真展の開催時期について話し合いました。そんな中でハンスさんがトラックにAGAと書いてあった文字を見つけ、「阿賀町」といって笑いながら私に教えてくださった。無口な彼がそんなユーモアをみせてくれることが嬉しかった。

そうこうしているうちに、最後の公式行事である日本大使館主催の晩餐会が開かれる高級ホテルに到着した。明石大使はビリニュス市長、カウナス市長、アイルランド大使をはじめ多くの方をお迎えし、会場は大勢のお客様で一杯だった。

明石大使、佃会長の挨拶後、日本人料理人が腕をふるった料理の山の前で歓談となった。大勢の人で食事もままならない中、私はすることもないので、こんなことはめったにないことですが、長谷川さんと、松本さんの料理を運ぶことにしました。

   古木さんは相変わらず忙しそうにいろいろな方と話をしていました。このようにして毎回人とひとを繋ぐことをされているEU・ジャパンフェスト日本委員会の活動を海外で見ることができました。もちろん古木さんを先頭に、それを支えているスッタフの方たちの存在があって動いていることを目の当りにしたわけです。

晩餐会も終わりに近づいた頃、ケイコさんと言う宮崎在住の音楽プロデュ―サーと話す機会がありました。彼女もEU・ジャパンフェスト日本委員会から招待されていた女性でした。
   音楽コンサートに心惹かれるものがあった佃会長は、彼女とコンサートの感想を話していたようです。古木さんのはからいで、私もその輪に入りました。

   ケイコさんはEU・ジャパンフェスト日本委員会の報告書や古木さんから聞いていたのか、私のことをご存知のようでした。いつか私に宮崎においでいただきたいと、お誘いもいただきました。
   佃会長は「今回は、今までの付き合いにはなかった方々との出会いがとても有意義でした。それに、あなたの写真はとてもよかったですよ」とおしゃっていました。

こうして催しはお開きとなった。古木さんたちは来年以降の打ち合わせのため、さらにトルコなどに寄って帰国するようです。私たちは明日、日本に帰国の予定ですが、英語の話せるMさんも居ることだし何の心配もありません。                

成田に着いた後は埼玉の大野さん宅に寄せていただくことになっていましたが、これまたご迷惑をかけてしまいました。お金と一緒に車の運転免許証も失くしてしまい、その再発行に手間取りましたが、お陰さまでようやく豊実に帰ることができました。

帰国後、リトアニアで知り合った通訳のアレクサンドラさんに日本語でさっそくメールを送りました。なかなか返事が来ないので日本語が読めなくて困っているのかなと思ったのですが、やっと返事が来ました。
   「返事が遅くなり申し訳ありません。私も賢太郎さんと出会えて嬉しかったです。そして作品もどれも素敵でとても気に入りました。なかでも『雲を食べる魚』が一番好きです。

   あの後、しばらく森の中で大勢のヒッピーたちと暮らしました。音楽のフェスティバル(トランス)があって、木炭の上を走ったり、12年振りに木登りもしました」とありました。

    日本語もすらすら読めるようです。日本の文化に関心があるようなので、読んでいただきたい本がありますので、住所を教えてくださいとメールを送ったところ、コスモ夢舞台のホームページに掲載中の「エレルヘイン少女合唱団来訪」シリーズを見てくださっていました。

   日本の短期大学の文学科を卒業し、漢文と古典も読んでいたようで、現代文なら間違いなく普通に読みこなせるのでしょう。
   日本の好きな本は、折口信夫の『死者の書』、泉鏡花の『高野聖』、遠藤周作の『深い河』、灰谷健次郎の『太陽の子』 など」と書いてありました。21歳という若さで日本人の私が読んでいない著書にも関心がるとは、本当に驚きでした。