2010.02.19
個展のこと
坂内克裕

 2月5日(金)の夕方、5時45分頃に、私は会場に着いた。日本橋高島屋の6階美術画廊には既に人だかりが出来ていた。入り口に森絋一さんがいらっしゃって声をかけて下さった。森さんとは昨年11月3日に和彩館で行われた、写真家アルトゥーラス氏を迎えての懇親会で、初めてお会いし親しくお話をしていただいていたので私も笑顔でご挨拶した。

 夕方6時。個展会場は、多くの人で埋まっていた。「音楽とギャラリートーク」の開始。まずは鈴木隆雄さんらの尺八演奏から始まって、佐藤さんのご挨拶、作品紹介とすすむ。
   佐藤さんのお話によれば、この会場の作品の99%は豊実で制作したものだという。それで私は納得した。先ほど会場を一回りして展示作品を鑑賞した際、「土のぬくもり」を感じさせる作品が沢山あったからだ。

一般に土は固いというイメージがあるが、良く耕した土は柔らかくふかふかしており太陽の恵みを受けてぬくもりを持っている。特に春ともなれば、土の中の養分が放つ熱気と香りが鮮やかで、まさに命の息吹を感じるものだ。佐藤さんが豊実という大自然のなかで制作した小動物や縄文の土偶など、そうした命の息吹が吹き込まれ、温かな「土のぬくもり」を感じさせるものとなったに違いない。
   作家の創造性とは、何と凄いものであるかと、あらためて納得させられた。佐藤さんは豊実で、里山アート展などの芸術活動のほかに農業をしたり、都会の学校の教育体験旅行を受け入れて大自然の中で子供たちを指導したり、景観づくりに汗を流したりして、制作している時間があるのか危ぶむほど忙しくなさっているが、そうした事柄すべてがやがて作品に凝縮されて表われてくるのだということに、思い至らされた。
   
   ホームページの「作家としての想い」の中の一節に「ところで、イベントはゆとりがあるから企画しているわけではありません。作家になった当初、私は生活をするためのみ働き、個展に追われていました。しかし、何の為に作家になったのか、最も根本に戻って考えたとき、それは『夢を作り、生き方を考え、表現する』ということなのだと改めて気づいたのです」。と佐藤さんは書かれている。
   その表現の一つとしての小動物等の作品が、「土のぬくもり」を都会に届けている。それは雄弁に作家佐藤賢太郎の目指す生き方を物語っていると私には思われた。

 ところで司会の大塚秀夫さんは、やおら風呂敷包みの中から昔自分が買い求めた「這い上がれ」という作品を取り出して、大いに自慢し皆を羨ましがらせた。大塚さんはその「作品との出会い」をまるで昨日のことのように熱く語ったが、実は私も一つの作品に出会うことができた。
   それは、「縄文時代の遮光器土偶をモチーフに制作した」と佐藤さんが紹介されていた「笑い人」という作品である。遮光器をかたどった大きな目とおちょぼ口の縄文の女性が優しく笑っている小さな壁掛けであるが、その笑顔は私の心に優しく浸透して温かな幸福感で満たした。
   
   佐藤さんは、豊実で縄文時代の遺跡が発見されたのを機に縄文人の生き方に興味を持ち、縄文に関するシンポジウムを3回も開いている。その資料を読ませていただくと、縄文人は大陸から弥生人が渡って来るまでの約1万年間、争いなく生き生きとおおらかに生活していたという。今の時代より縄文人の方が人間らしく生きていた、その生き方に現代人は学ぶべきものが沢山あるのではないかと、シンポジウムでは提言がなされている。
   
   そして佐藤さんは、豊実の縄文遺跡発掘のきっかけとなった新渡大橋のモニュメントをはじめとして縄文をテーマにした作品も制作されてきた。その流れの一つがこれなのだが、青森県つがる市亀ヶ岡遺跡から出土した「遮光器土偶」は縄文晩期の作というので、今からおよそ3000年前になる。一見その宇宙人のような姿かたちで有名になった土偶であるが、本物は笑ってはいない。
   しかし佐藤さんは、優しい丸みの中に笑顔を持つ女性とした。それは、平和で人間らしく生きていた縄文人の幸せを表現したものだと私は思った。そしてその笑顔は、遥かな時を越えた「縄文の微笑み」と呼ぶべきものと感じた。この作品は、不景気で暗い現代の世の中で、部屋の壁にあってほのぼのとその一隅を照らし続けてくれることだろう。

 夕方7時半から、近くの居酒屋に場所を移して行われた「懇親会」にも参加させていただいた。森英夫さんの司会で和やかにすすめられ、何人もの「ふくろう会の重鎮」という人々や、友人知人等多彩な顔ぶれが紹介された。なかなか凄い人達の集まりだと感心すると共に、このような人達を惹きつけてやまない、佐藤賢太郎その人の大きさをあらためて実感した。

   今回の個展は、ふくろう会を中心とする「コスモ夢舞台実行委員会」が、作品の搬入から展示、音楽とギャラリートークの企画・実行、懇親会の設営等、全面的バックアップを行っているという。翌日の昼前、帰りしなに画廊を訪れると、やはり森紘一さんが、来客の対応に忙しい佐藤さんのバックアップをしておられた。佐藤さんがいつも「仲間に助けられている」とおっしゃっている事を、私は目の当たりにすることができた個展でもあった。

 最後にもう一つ、今回は上京されなかった奥さんの内助の功についても触れなければならない。私が帰る日、東京でも非常に冷たい風が吹いていたが、私の住む福島県会津や佐藤さんの新潟県豊実では猛吹雪になっていた。
   私の帰りの足は東京駅八重洲口から出る高速バスだった。順調に進んだのは東北道の那須塩原インターまででその先は通行止め、そこからは一般道に降りて田島経由で会津若松に向かうことになったが、不幸なことに途中の栃木県内のトンネル出口での交通事故による処理待ちで、約3時間足止めを食うなどして、結局到着したのは5時間遅れの午後10時過ぎ。約9時間をバスの中で過ごすことになったわけである。こんな経験は初めてのことだった。
   心配した佐藤さんが車中の私に電話を下さり、その際伺ったところでは新潟でも鉄道が運休するなど混乱が続いていたという。翌朝起きると約30センチの積雪で、日中は晴れたが朝夕除雪をしなければならなかった。
   おそらく豊実でも、留守番の奥様は一人で家を守って、雪との戦いに大変な思いをなさったことだろうと思う。

   2月2日付けの「風ぐるま12」では、「姑と心通わせ笑う冬」と題し、穏やかな生活を紹介なさっているが、一方で、東京ではうかがい知れない厳しい自然との戦いの中で家を守る奥さんがあってこその個展であったことを記しておきたい。