2015.05.23
母の葬儀
佐藤賢太郎

 母は92歳を直前に、あの世に旅立ちました。仏様のような心になって、天寿を全うしたようであった。戒名は薫風昌清大姉といただきましたが、まさにそのようであったと納得できました。

 ところで、入院した時点で危ないと医師から告げられていた。私たち夫婦は毎日、津川の県立病院に一か月半通った。

母の残した言葉を今も印象深く覚えています。私たちが喧嘩をしていると「先が長くないのだから、夫婦仲良くしてくれ」と懇願していた。歩くこともままならないのに、私が再度ギリシャに彫刻制作に行くと言うと、子供のように「俺も行く」と真剣に言い、別れを嫌がった。やがて、リハビリパンツでおむつ交換するようになって「お前たちに、いつも迷惑かけて悪いな」とも言っていました。大変なことは、いつも家内が世話をしてくれた。自分の母にもしないようなことをする家内の姿に、女の逞しさを感じました。すっかり弱ってきたころ「俺もこれで終わりかな」と呟いた。

入院先の床で、母はようやく声を出して答えてくれた。「今日ね、ジャガイモを植えたよ」と呼びかけると「よかったな」と答えてくれた。私が「長い間育ててくれて、ありがとう」と母に呼びかけると「おかげさまで」「ありがとう」と答えてくれた。もう反応もなくなり、声も出なくなった。

 葬式のとき、母の映像DVDが映された。私は涙がこみあげてきた。写真は生前から私が選んでいた。それがとてもよかった。私の葬儀も今から準備しようと思う。

そして、葬式での弔辞は母の弟、赤城さん、仲間の鈴木隆雄さん、桐山士郎さんに頼んだ。心のこもった素晴らしい弔辞であった。

 人の死は、生きている方にメッセージを残していると思います。母が私たちに与えてくれたこと。

1.兄弟親戚の絆を深めていただく機会をいただきました。

2.他人とのつながり、多くの方に愛されていたこと。

3.周囲の形式より、喪主が貫き通す機会であった。

92歳にもかかわらず、大勢の方に見送られた。母は村の番長で、太っ腹であったと多くの方に聞きました。大勢のコスモ夢舞台有志、会津若松の朝起会の方、新潟の朝起会の方もおいでになられ感謝一杯であった。

人は生まれたら必ず死に向かっています。だからこそ、生きているかぎり、多くの方と感動をともにしながら暮らしてゆきたいものです。