2010.11.11
「文化とはこだわりである」―新潟の山村にて―
大西 旦

 新潟県の最東端、阿賀野川沿いの集落・豊実で行われるイベント「コスモ夢舞台」の案内を、元同僚のM氏が送ってくれたのは今年の八月。《過疎化をはじき飛ばすのは一人ひとりのきらめく活力だ。アート、農、原風景の再生をきっかけに、都市と農村の人々が集い、心を開き、創造的な汗を流す場、それが「コスモ夢舞台」である》と書かれていた。

ひとは案外、自分を育んでくれた土地の素晴らしさを知らない。当地出身で石彫家・佐藤賢太郎氏が中心となり、地域活性化の試みとして始まったこの手作り行事は、各地のアーティストたちが刈入れの終わった氏の田圃をギャラリーにし、更に石で田圃に野外舞台を作り、人との触れ合いを目標に活動するNPO法人組織。M氏はその実行委員の一人だ。

 東北本線郡山駅を起点とする磐越西線の列車は会津若松終点が多く、その先の喜多方や新潟方面への列車数は少ない。鉄道に沿って流れる阿賀野川は福島県西部に端を発して本州中央の山地を通り、新潟県を経て日本海に注ぐ大河。その山間の豊実は無人駅で、700m前後の山に囲まれ、駅前の川沿いの僅かな平地に数十軒の家が国道沿いに軒を並べている。

鉄とコンクリートに囲まれた都会から来ると、ここは明らかに時間の流れが違う。自然な時間の流れがいかにゆったりとしているかに気づく。都会では秒単位、一日単位、一週間単位の判で押したような日常生活の中で、人の心が乾いていく。過密なほどに住人がいるのに全く相互のつながりを持たない、人の砂漠。脚が地面に着いていないような毎日。

ひとは自然から生まれたのに、それを忘れたままオール電化の機械文明にどっぷり浸かっている。テレビ、パソコン、ケータイが人生の全てであるかの如き生活が、全国で一日に90人が自殺する国の現状だ。便利と効率だけを追い求めた結果がもたらしつつある文明とは一体何なのだろう。この静かな山中にいると思わずそんなことを考えてしまう。

現地に着いた日は雨だったが、アーティストたちは田圃で自分の作品を仕上げていた。作業宿舎の二階で泊まった夜は、室内で越冬を目論む無数のカメムシの排除で電気掃除機がフル回転。ゴミ収納袋が一杯になるほどだったが、併設の浴場は湯船も素晴らしく、事務局のある和彩館での黒米ご飯の夕食も、思わずおかわりする美味しさだった。

開催当日は青空が見える晴天。今までイベントの当日は雨が降ったことはないという。
田圃脇の国道49号では、地元や周辺から集まった若人から老人までが弁当と飲み物持参でゴザに座って行事を待っている。子供たちはアーティストの作品を見回したり鳴らしたり、木の橋やシーソーで遊ぶ。フォークソングを学生が演奏して歌うのを皮切りに、昼を挟んで和太鼓、津川踊り囃し、港甚句など、地元の民謡保存会の子供から大人までが総出で披露する。異国のバリ舞踊、フラダンス、安来節まで飛び出す賑やかさ。脇を走る磐越西線のSLが、会場横で汽笛を鳴らして会津方面へと去っていく。高台の道に車を止めて眺める人。露店の弁当もおでんもコーヒーも売り切れが出るなど、売店も忙しかった。

 これは一地方のささやかな試みかもしれない。けれども意思をもったひとが係わることで何かを生み出し、ひとに何かを気づかせるきっかけになることは確かだ。新潟方面行きの列車の中で、自然の価値を理解せざるを得ない時期の到来の必然を、ぼくは予感した。

                              (埼玉県在住・著述業)