一途な里山の一途な志

                   奥会津書房 遠藤由美子

 赤い橋を渡ると、不思議な空気感に包まれて車を降りた。

 道路工事でグルグルと迂回してきた初めての道で、いきなり眼前に現れた不思議空間。車を降りて見渡すと、そこは見慣れた豊実の田んぼだった。

 冷たい雨に、時折川面から舞い上がる風が吹き付けて、指が凍えそうだ。それなのに、懐かしさと不思議なバイブレーションに包まれて、ほとほとと胸があたたかい。ストールを頭からかぶっても震えそうに寒いというのに、そこはあたたかい小宇宙だった。

 橋の左側に広がった高低差のある田んぼには、土や水や枯れ草と拮抗したり同化したりするいくつもの作品が、根を張ったように立っていた。それらは「置かれた」のではなく、自らその場所を選んで自ら立った、という意志を纏っているように思えた。

 切りっ放しの石畳と打ちっ放しのコンクリートが、田んぼの泥を荒々しく拓いて新しい道が生まれていた。荒削りな石の隙間からは、流れる水や水草が顔をのぞかせている。硬く冷たいはずの石の道から伝わってくるのが、安堵や信頼やぬくもりなのは何故だろう。

 晴れた日にここに寝転んでいたら、空とつながれるかもしれない。

 冷たい雨と風の中を、作品の発するさまざまなバイブレーションが交錯して、空を切り取ったり漂ったりと、見えない直線や曲線や柔らかな面が会話し合っているようにも感じられた。意志あるモノたちが会話し響きあう場。それが、不思議な空気感の正体だった。

 佐藤賢太郎氏に案内していただいて再びその場に立つと、不思議の正体がさらに明らかになっていく。硬い道が発する信頼の意味も明らかになった。

 里山アート展は、創造それ自体が循環を成し、やがて再生へと昇華するダイナミズムに貫かれた場であったのだ。

 他を思い、共に生きようとするとき、アートは鋭く主張することを控えてバリアを外し、自らを解放していくのだろうか。控えめな佇まいの作品の群れは、他を侵すことなく調和してなお屹立していた。

 ひなびた里山は、9年を経ても一途に里山であり続けている。

 一途な里山に一途に深化する志がある。