2016.11.02
豊実に吹く風
間地紀以子

  里山アート展が来年で14回を数えるという。 よくも毎年、作品をクルマに積んで300kmも走って参加してきたものだと思う。 何故に、華やかな報道も無い、特別の報償もない、観客が特別多いわけでもない、この地のアート展に通って来ているのかと、自問したことがかつてあった。 かつて、と書いたのは今は私なりに答えが出つつあるからだ。

 そして、その答えに繋がるのが、フクロウ会の皆さんの活動である。 私が里山アート展に参加するよりかなり以前から、佐藤賢太郎さんを中心とするフクロウ会の皆さんは、遠く埼玉県から週末を利用してこの地豊実に通って来て、古民家を改修しギャラリーを作り、蔵を展示場にし、宿泊施設のみならずレストラン、亭、はてはパン焼き石窯まで作り、荒れて放置されていた畑を散策路にし、ビオトープを作り、思いつく限りのたのしい自由空間をイメージし、たぐいまれなチームワークで次々に計画を実現させてきた。 どうして? 不思議なこと。

 その後にスタートした里山アート展も、遅々たる歩みではあったものの、地元の小学校や地域の方々に受け入れて頂き、助けて頂きながら、今年はモロッコ・フェステイバル、昨年までは田んぼ演芸会にまで発展している。

 アート展も作家のみならず、小学生や障害を持った方々やちょっとアートに興味を持った方や、フクロウ会の新進アーテイストなど、多くの方が参加して年々実り多いものとなっている。 ふりかえれば以前からの私の持論、「アートは特別な人だけのものではない」が、いつの間にか此処豊実で実践されているのだ。 

 野の花や木々のささやきに心がふるえ、空の変化や雲の流れ、川の音、鳥の声を美しいと感じる、、、。 それがアートの芽生え。 アートが生まれるはじめの一歩。

 まず感じて、応える。 何かを感じて、自分のものにして、出す。 表現する。 

美術だけでなく、音楽も演劇も全ての表現活動に共通するワクワク感、ドキドキ感。

里山アート展に参加して初めて作品作りに取り組まれた方は、この心の動きを実感されているのではないだろうか。 この楽しさと喜びが一人一人をアーテイストにする。

 今年は「モロッコ・フェステイバル」を皆で楽しんだようだが、昨年までの「田んぼ夢舞台まつり」も素晴らしい。 踊る人、演奏する人、歌う人、観る人、子どもからお年寄りまで、いつの間にかみんながアートしている。 会場係もお弁当やさんも。

この田んぼの時間と空間全てがアートといえるのではないだろうか。 数年前から里山アート展のDMハガキに「アートと生活」というキャッチフレーズが加わり、ひそかに私は「ケンタロサン、ヤッタネ」と嬉しくなった。

 数億円と言われるゴッホの「ひまわり」も、画廊で売買される絵や彫刻も、それらも確かにアートの「一部」だ。 だけどアートは私たちの考えをはるかに超えて、ふところが深く大きい。 そしてアートは拒まない。 誰でも何処でも、アートは生まれるし触れることが出来る。 アートはいつも「ウエルカム」してる。

 遠い昔、琵琶法師が語り、吟遊詩人が辻で唄い、漂泊の絵師は泊めてもらった寺の襖にお礼として絵をかき、踊り手は舞うことで人々にひとときの癒しを与え、次の村に旅を続けていった。 日々の生活の疲れをいやすハレの時間、異空間を提供し、夢を残してまた次の土地に向かって行く。 アーテイストは外から来てまた、去って行く風。

 賢太郎さんとフクロウ会の皆さんは、「外からの風」だった。 けれどもこの風は、この地に留まり続け、今もまた、新しい実りを約束し続ける。 このコスモ夢舞台が県内外、海外も巻き込みつつ、里山アート展が13年も継続し、風を送り続けていくことを考えると、これからの活動に幸多かれと祈らずにはいられない。

 豊実のコスモ夢舞台と里山アート展の時間と空間を体験した子どもたちや人々が、これまでよりほんの少しハイな気分で阿賀の風を感じ、空を見上げる時、アートはもうそこにある。 アートと生活は繋がっていて、アートの中に生活があり、私たちはアートと一緒に生活しているのだから。