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古木です。いま、オーストリアのリンツという町に
きております。
こちらに来ていても、「コスモ夢舞台・麹町地区応援団長」としては
毎日、ホームを拝見しています。

ポルトガル女性との交流についても、
楽しく読みました。

現代の国際社会において、
人間は、法律的に言えば、国籍で分けられています。

しかし、それは、長い人類の歴史を見渡せば、
まるで昨日のように、
ごく最近になって、作られた制度にすぎません。

日本海の「竹島」(韓国名:独島)の領有を巡って、
日韓で激しいやり取りがあります。
その最中、ある韓国人がこんなことを言っていました。
「百万年前、この島は誰のものでもなかった」

国を愛することは大切であると
私も思います。

しかし、それは、人間を愛することが
前提であり、その基本にあって、初めて意味があるのだと
思います。

20世紀に入って、核爆弾という究極の「大量殺戮兵器」が出現し、
長崎や広島に投下されました。

この「核」によって、
皮肉なことに、愚かなことに
世界大戦が再び起こる可能性は、低くなりました。
それは、核の使用の応酬によって、相手だけでなく、
自分たちも、この地球全体も破滅することを知ったからです。

一人の人間を殺すと「殺人罪」が問われますが、
戦争という異常事態では、出来る限り多くの人間を
殺戮し、勝利を勝ち得た方が、正しいとなり、その指導者は
英雄となります。

8月15日は、日本では「終戦記念日」となっています。
しかし、こちらで「CNN」を見ておりましたら、
「今日は日本降伏記念日」と報道されていました。

「終戦」という表現は、実にいい加減です。
なにか、「台風一過」と同様に、
自然に終わったという印象をかもし出すから
問題なのです。
事実は事実ですから、「敗戦記念日」として
あの忌まわしい歴史を、年に一回しっかりと
思い出すことが、未来の平和にとって
大切だと考えます。

結局、戦争の歴史は「お金やモノを巡る諍いの歴史」に
他なりません。

「宗教の違いによる」とされる戦争も確かにありました。
しかし、仏教でも、イスラムでもキリスト教でも
犠牲者の多くが罪のない市民である戦争を
認めてはいません。
宗教の違いを口実にしたに過ぎなかったのです。

話が、だいぶ広がりすぎたので
戻します。 

私の言いたいことは、
佐藤さんが、日常で行っている活動は、
縄文の時代と変わることのない
人間愛にもとづいたものだということです。

そんな表現は、奇妙に聞こえるかもしれません。

しかし、それは、現代に生きる私たちが
人間の根源的な幸せに向き合うことを
忘れつつあるから、そう感じるのでは
ないでしょうか。

科学技術の驚異的な発展に人間の精神が
融合できず、追いついていけず、モノやカネを巡って、欲望が渦巻き、
それが、国際社会に深い影を落としている現実に
目を背けてはいけないのだと思います。

とは、言っても、私たちは、そんな膨大な国際的課題とは
無縁ではないかと考えます。

しかし、そんなことはありません。

大河も源流のわずか一つの水滴から、始まることを
思えば、一人一人にできることは決して無意味では
ありません。

うれしいこと、たのしいこと、大切なことが
自分だけのものではなく、
周囲の人と分かち合うことが
ごく自然にできれば、それは
価値あることと思います。

私は、そのことを
佐藤さんたちの「コスモ夢舞台」の活動から学びました。

(EU・ジャパンフェスト日本委員会事務局長・古木修治)