2007.02.05
「戦争という仕事」を読んで3 



  魂の存在を信じる人がいても、そのことを全ての人に証明することは難しい。と氏は言っているが世の中には説明のつかないことがたくさんある。人の生死もその一つ。
 どうして私は教師をやめて経済的に割の合わない彫刻家を選んだのか。どうして郷里にコスモ夢舞台を作ることに夢をもってしまったのか。そしてボランティアで人が集まるのか。私も動かされているといっている。仲間に命令をしているのでもない。私も自の仕事もさし置いて動いてしまうのはなぜか。私は、そして仲間も見えないものによって動かされている。もしかしてそれが魂なのか。成功するように動かされている。

 さらに氏は労働の中に自然がかかわらなくなったとき、生命が見えなくなり、自分の生命をつかむ事ができなくなった。ここに現在の私たちがいると。雪国では季節季節に労働を伴い自然に大きく対応をしなければならない。それが雪国では厄介な事といわれている。しかしそれが生命を見えることになる事なのか。仕事の後、雪降る中歩いていると白いウサギが道路を横切った。彼らも生きているのだと、今私は自然の世界にいるのだという実感があった。雪が仕事場に舞い込む。関東のように晴天でなく効率が悪く不自由である、しかし自然そのものを感じる。つかの間の晴れ間に尊く感謝する。

無事

  秋わが村の有線放送は熊が出たばかりであった。サルが出て野菜を食べられて困ってしまう。こんなことは昔なかった。氏は言う人間が森から手を引いたからだ。森で生活したいと思っても市場経済では山の労働を無価値にしてしまっている。熊が出て慌てるがどうすればよいのかと答えは出せないでいる。全国各地に杉の木ばかり植え動物たちの生活の場を奪ってしまった人間たち。私が小学校の頃朝早く山に行って栗を拾った。その林はなくなっている。村は共有地を杉の木ばかり植えてきた。それが生活を豊かにするものとの国策でもあったが60年たってもその考えは変らなく村人はそうした。炭焼きをする人もいない。ままごとのような広さかもしれないが私の意志次第でできる悠悠亭がある私有地に、私は杉の木を切って落葉樹を植えようとしている。そんな馬鹿な事をする村人はいない。変わり者と今も村人から私は言われている様だ。(佐藤賢太郎)