2011.01.30
単純明快に生きる5
佐藤賢太郎

5.制限は新たな生き方に

イスラム圏ではラマダンという日がある。食事は勿論、水さえ取らない。先日、その一部をテレビで見ました。ラマダン(断食)が終わると人々は歓喜にあふれる。ラマダンはさまざまな感謝を知ることでもあるようだ。一杯の水が旨い。食事はても美味しいといっている。体にも良いようです。ラマダンによって、普段余計なものまで食べ放題になっている生活スタイルをこの日は辞めることができる。私も、このようなことをしたほうが良かったのだと思う。しかし、命がかかっていなければ、そうそうできるものではない。

私は石の彫刻作品を制作している。なんと言っても石彫作品というのは制限の中で作ることになる。粘土のように自由にはできない。しかしこの制限があるからこそ、私は助けられて作品を作ることができるのだと思う。制限されることは、決して不自由、不幸なことではない。

話は戻りますが、私は生まれてはじめてたいそうな病名を医師から告げられた。しかし、友人から情報をいただいて今までの生活スタイルを自主的に変える決意をした。医師の選択肢は3大療法の一つ、ただ手術だというばかりである。

私はこの機会に、ラマダンではないが食べ物を徹底して変えることにした。それが玄米菜食である。先にも「シンプルな食」に書いたが徹底している。なぜなら自分の命がかかっているからだ。この程度なら、などという甘さは私にはない。薄い味つけの野菜からは甘みを感じ、調味料は塩、しょうゆで昆布やにんにくなどから作る。サツマイモに梅干を少し入れて蒸す、すると何とサツマイモが甘いのである。こんな体験は始めてである。

先日、ある方がおいしいお菓子を持参してこられた。よだれが出そうで、以前でしたらパクパク何個でも食べていた私である。母にどうぞ食べてくださいといって差し出します。しかし私と家内は絶対に口にしない。

多くの友人は私の命を心配してくれるが、このスタイルは私にとって今までより、よりよく生きるための選択である。私は絶対に生きぬくという意志がある。世の中には常識というものがある。それは何を基準にしているか、何を頼りとしているか、何を信仰しているかによって外国の常識と違うように常識は変わる。こんなことは私にたいそうな病名が付けられなかったらできることではなかった。

私は生活のスタイルを変える決意をした。作家や仲間が泊まると夜遅くまで飲み明かすことがあったが、それはもうしません。10時には就寝にします。付き合いが悪いなどと言っている場合ではないからです。それに未だ友人と夢つくりに付き合いたいからです。

勿論、健康に自信のある方は起きて話し合ってくださってかまいません。欲望にはきりがない。食欲、金欲、性欲(若い時)、名誉欲などなどこれでいいということがないようだ。私はそれをこうして制限されたのだと思う。そう思うと還暦を過ぎ、ようやく真剣勝負で自分を変える機会に恵まれた。