2008.08.08
生かされている実感

 ご存知のように体験学習の生徒を今年も受け容れています。学校は勿論クラスによってもさまざまな違う生徒の現状を目の当たりにしております。彼らに何か自分の日常生活とは違った生活の中から、大切なものは何か、また人の生き方を感じてもらおうと受け入れに意欲を燃やしております。

 さて今年は昨年と同じ生徒が希望で女子中学の生徒がやってまいりました。そこにもう一人加わって3名の参加でした。昨年の感動的なできごとから彼女たちに期待もしておりました。何せ口数がほとんどなくとても正直、私たちはとても苦労をしたスタートがあったからでありました。気合を入れなさいなどと言うことで指導ができないものを感じていたからです。川遊びの最後に急斜面を必死になって這い登らせたことで心が開き始めたのであります。

 そうした経緯もありもう一度そこを上らせる挑戦させようとしました。すると昨年経験した子のうち一人が体調良くないのでというので彼女はずしました。昨年に比べ難なく登ることができました。さてその次私と含めて4人でまたたびを取ろうと沢沿いに歩きました。その帰り道、斜面のぼりをパスさせた子がなんと道を踏み外し目の前で4メートル位したに頭から落ちてしまいました。(草で歩く道が見えなかったのだろうと思うのだが。)あっという間の出来事でした。見ると岩も出ています。皆、息を呑むようにして彼女の様子を見ていました。「大丈夫か。」と声をかけますと、めがねをいじっている様子であり、岩にあったっていなかったようであり、無傷でありました。私は肩を書けその子担いで揚がりました。

まさかのことが起こったのであります。一つ違ったらとんでもない事故になっていました。翌日の私の夢に生きる講演もキャンセル。新聞にはきっと事故の報道として掲載されたと思います。運命は紙一重のところにあると実感しました。その子にしても私にしても何かによって生かされているそのものでありました。私ごとで言えば仲間の皆様には申し訳有りませんが、死に至る事故が起こっていたらコスモ夢舞台もこれで終っていたと思います。

この紙一重と何によってなるのか。今日までのコスモ夢舞台作りも思えば奇跡のような連続であったのかと思います。神様は、大自然は私をもう少し生かしてあげようとしているのでしょうか。夢を追っているときが夢実現であるとも思うのですが、まだまだやらなければならないと言うことでしょうか。

 怖がっていたら何もできません。今日最後の体験をさせますが急斜面のぼりは一回出なく2回はさせます。しかししたくない子はさせない。自分で判断することと言います。そこで彼女たちの運命も変わるものと思い、体を張って向かいます。(佐藤賢太郎)