2008.01.14
親の介護2

父の様態は急変し目を開きながら、大便、家に帰ると一晩中大きな声で言い続けた。こんな日が何年も続いたら大変だと私も思った。そのたび母は一晩中眠れない頭がくらくらすると言いながら「父ちゃんはもう足が悪くなって動けないのだからダメ」とう、また「頭がおかしくなってしまった」とも父に言う。すると父は抵抗するように「いい」と怒る。

そこに家内が言って話しかけた。「お父さんはいま肩が外れて動けないの、直ったらトイレに行こうねと言った」「ここでしていいよ」というと父は納得した。そして父は「○通(自分が経営する運送会社)で一杯働いて方が痛くなった」と応えた。その後便所、家に帰ると何度も同じことを繰り返して父はいう。私もそばに言ってここでしてもいいというがやはり聞き受け入れない。家内が言うに「真心を込めて言わないとダメよ」と言われた。「今日は雪が降っているから止んだらね」と言うと納得したようである。

言葉の意味が解らなくとも人は言霊と言う波動によって病人に伝わるのだろうと思った。このことは健常者においても同じ事なのだろう。お医者さんが来てくださって出すもの(大便)を出すともう出なくなり静かになりますよと言った。その間家内と母私は下の世話を3人がかりでした。そしてヘルパーさんが着てくれてこう介護するのと教えていただきとっても楽になった。やがて父は口をあきスウスウしながら寝るようになってきた。長いたびに立つように昏睡状態になってきた。その顔は童心のようであった。

 87年、父の旅はつらく長かったと思う。私は父と面と向って話し合いなどしたことが一度も無かった。高校入試、大学入試、結婚、新築、教師からの転職こんな大事な事を一度も相談もなしに自分で決めてきた。しかしそれは親の庇護の元であった。14歳のとき自分の父を失って働き手となった。それまでは財産家の家だったと聞く。家の財産争いや、そして戦争で満州の戦地に行って、やせこけたが無事帰ってきた。帰ってきてまた零細運送会社の経営をしていた。嫁集との確執もあった。私が中学校のとき、村に大火があり私の家も丸焼けになった。私も時折大学の頃一度手伝いをした。重労働であった。人を使うことの難しさ。いろんなものをかいま見た。経営は火の車であり、なけなしのお金で私を大学に出してくれた。父の兄弟おじさんたちは東京でみんな成功をして社会的に地位があったようだ。せめて自分の子に大学は出してあげたいとの思いは、言葉にはほとんど聞くことが無かったが、親としての強い思いがあったようだ。

苦労して大学に入れて学校の教師になったがそれをやめて彫刻家になると勝手に歩く私。がっかりもしたようであった。それでも新聞に出るようになり少し喜んでいるようであった。親はいつまでも子を心配する。母が言った。「父ちゃんはお前たちに子供がいないのでどうするのかと口には出さないが心配している」と。苦労をかけての私であったと思う。

昨夜家内は一晩中父のそばで寝ていた。(佐藤賢太郎