2009.02.16
縄文土偶に想う
佐藤賢太郎

冬になると雪に閉ざされた生活になり、時空を超えて縄文人の生き方を考え、古代を想わずにいられない。

だから、冬になると縄文の著書を再三読み返す。いろいろな学者の著書を読み返す時でもあります。しかしどの学者にしても、確定的なことがつかめているわけではないと思いながら私も想像します。

いつかいつかと思いながら、私もようやく豊実から出土したマスクをつけたような土偶の復元に挑戦してみた。材質がテラコッタで本物より3倍くらいの大きさで制作し、蔵・銀河に展示しています。またそれをモデルに復元でなく、黒御影石で制作しました。

 縄文の精神性を表すものとして、私は土偶に一番魅力を感じます。なぜあのような、リアルからかけ離れた人物像を作ったのか。あれは自然の精霊であって人間ではない。その表現が難しくてあのようになった、とある学者は言う。私も彫刻家として、当然土偶のフォルムに関心をもちます。ミロのビーナスとは、天と地ほどかけ離れた人物像です。

 私は縄文土偶からヒントをえて、一度石の彫刻を作ったことがある。以来、間をおいてもう一

度この冬作品の制作している。なぜ制作するのかと問われたら、如何してあのような造形を縄文人が作ったのかを知りたいからです。しかし作りながら悩んでいます。縄文人を作るのをもうやめようかと思いながら、もう一点つくり、またやめよう、別なテーマで作品を作ろうかと迷いながら制作しています。

 ところで、面を被っているような像ですがこれは面を被ることで神になれる、その姿であるとも言っている方がいます。

また、縄文時代は死と隣あわせであった。だから再生を願わずにいられない、土偶は再生を願う存在である。土偶は主に女性であるといわれている。それは再生、男にはない生む力のある存在であるからでしょうか。(小林達雄氏はそうでないと反論していますが)

さらに、怪我や病気など痛んだところを直して欲しいと折り念じるために土偶があったとも言われている。

 古事記にもあるように、殺された神から別な食物が生まれるように、土偶を壊すことで豊饒を祈ることもあったのでないかともいう。   

私も、一つに焦点を当てるだけでなく、いろいろと考え合わせながら作品を作る。例えば神ではなく、人間としての再生を願う作品を作ってみた。私の作品はまったく新しいものではなく、縄文人が作ったのをなぞった程度である。5点作ったがやはりなぜ縄文人があのよう土偶を作ったのかは正直わからない。

 現代人は五官に感じるものの範囲しか信じません。渡部昇一さんが書いている言葉に、『普通の人間は解剖学制限下にある。哲学的にいえば「世界内存在」が人間の実態である。だから解剖学者はオカルトの世界を認めない人が多い。霊魂だとか超能力などはいくら解剖し、優れた顕微鏡や検査でも存在を突き止めることができないからだ』、という一文があります。時間を加えた4次元までの世界は我々にもわかる、しかし5次元とか6次元の世界はみえないし、感じ取ることができない。そう思うと縄文人は5次元の世界まで感受できる能力があったのかとも思った。

 ここに、縄文土偶と縄文人の感性を思いながら、なぜ縄文人が土偶を作ったかを考え続けている遠因がある。