件名: 縄文人の冬(お応え)
佐藤賢太郎様

“そんなおり再度奥会津書房の「縄文の響き」を開いてみた。さすが雪国の出版社奥会津書房では地元の角田伊一氏は奥会津では三内丸山のように定住生活していなかった。冬には縄文人はひとっこ一人住んでいなかった。豪雪の冬は暖地に移動し春になったら舞い戻ってきたのでないか。そうだとすれば現代人以上に優雅な生活をしていたのでないか、ため息をつくのは現代人なのかもしれない。と記していました”。

上記、角田伊一さんの記述ですが、到底受け容れ難い説です。

まず第一に、考古学的事実から言えることは、縄文時代全時期を通してある程度の生活領域を確保しつつ各地域に縄文人がまんべんなくいたという事実です。同時期の遺跡は10〜20kmを隔てれば必ず存在します。つまり隣村です。そしてそれぞれが食料を確保する領域をもっているのです。その領域を勝手に侵すことはありえません。勝手に侵せば争いが生じるからです。1万年の間争いを行わなかった所以はここにあるのです。余所の領域を侵さないという掟こそが最も縄文社会を維持させた根本原理であったでしょう。
 
しかしながら、その領域内での季節的移動は専門的に議論されている問題です。
ある季節に限って大量に食料が獲得される状況では、食料獲得に有利な場所に移動することがあり得るからです。例えばサケやマス漁を行う場合や海で大量の貝を採集し、加工する場合です。しかし、これらの作業もその地域の特権ですし、獲得した食料や加工品(干し貝など)は重要な交易材ですから、必要な労働力を近距離から集める以外(周辺のいくつかのムラが共同で作業を行うということはあるでしょう)、数10kmを隔てた遠距離の人々が参加するということはありません。
 
なぜそんなことが言えるのかというと、もし数10km離れた場所に季節毎に移動した
とすれば、同じ生活用具が見つかるはずだからです。最も個人や集団の癖が表れるのが土器です。同一人や同一集団が場所を異にして土器を作り、使ったならば、極めて似た特徴の土器がそれぞれの場所から出るはずなのです。ところが、このような事実はありません。
10km離れれば確実に別な個性を有する土器が同じ時期に作られ
使われているのです。明らかに同一の集団が使った土器であれば私たち研究者が見落とすはずはありません。そんな事実は日本全国どこを探しても無いのです。
 
三島町の佐渡畑遺跡の縄文人がどこに移動すれば雪から逃れて暖かい地を得ら
れるのでしょうか?会津はどこもかしこも雪だらけです。それなら、いわきですか?関東ですか?もっと暖かな紀伊半島にでも移動したのでしょうか?土器やその他の生活用具を見ればそんなことが絶対ありえないことがわかります。
 
秋に蓄えた木の実は半端な量ではありません。冬を乗り越えるだけの確実な量を
蓄えるのです。もし移動するなら、それをどうやって運ぶのでしょうか?それとも食料確保が不確実であろうと暖かであればいいと言うのでしょうか?
 
雪が多いからこそ落葉広葉樹が繁茂し、多くの植物質食料が得られるのです。だか
らこそ太平洋側ではなく、雪の多い地域に縄文文化が発達するのです。雪の多さは次期の実りを約束してくれる証なのです。更に猟を行うのも冬が主です。動物の行動を把握しやすいのと動きが鈍るためでしょう。これは現代まで続くマタギの習俗が参考になります。
 
縄文人は確実に雪に立ち向かっています。だからこそ春の「再生」をこの上なく期待
し、喜び、精神生活の柱に据えるのだと思います。
 

福島県立博物館
森 幸彦