件名: 縄文人の冬2(お応え)
佐藤賢太郎様

  ところで、縄文人の人口増があまりなかったから争いもせずにこられたのでしょうか?もし寿命が延びたり、子孫が多く繁栄していたらどうなったのでしょうか。他の村との争いが起こったのでしょうか?それとも自らの意思、人口抑制をしていたのか、例えば口減らし、江戸時代の間引きのように。縄文人に夢を持つ人ならとんでもないというでしょう。

→青森県青森市の三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけて集落が継続して営まれますが、中期後半になると集落規模が小さくなって行きます。これは地球規模的寒冷化現象が影響しているといわれています。その同時期に東北南部
や越後・北陸地域にかけて逆に集落規模の拡大現象が起こります。ちょっと専門的になりますが、表にしてみましょう。

 

 

 

縄文時代中期前半

 

大木7a式

 

大木7b式

 

大木8a式

 

 

 

 

新潟県阿賀町屋敷島遺跡↓

           ↓ 

今から5,030〜4,900年前

 

 

 

縄文時代中期後半

 

大木8b式

 

大木9式

 

大木10式

 

 

今から4,910〜4,885年前

 

今から4,810〜4,580年前 複式炉

              

今から4,620〜4,460年前  

                           

 

 

 

縄文時代後期

 

称名寺式

 

綱取式

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今から4,470〜4,400年前

 

今から4,490〜4,130年前

※年代は藤根久・佐々木由香((株)パレオラボ)・日本考古学協会2005年度福島大会実行委員会「複式炉の年代」『日本考古学協会2005年度福島大会シンポジウム資料集』から恣意的に抽出したもので、大凡の目安と考えてください。

 表の中で大木9式、10式のところに「複式炉→→→」としましたが、この時期に限って、竪穴住居内に「複式炉」と呼ばれる燃焼部を複数持った特殊な炉(石で組まれた炉と土器を埋め込んだ炉が合体した形の炉。土器を埋め込む数は1〜3個)が造られるのです。新潟県内でもたくさん発見されています。阿賀町内でも大字九島字北野にある「北野遺跡」から見つかっています。

 さて、この時期の福島県内の住居跡の数は、爆発的に増加します。阿武隈川沿いの中通り地域だけを見ても、大木8b式期の住居跡が59軒であるのに比べ、大木9式期の住居跡数は201軒、大木10式期には512軒という10倍近い数に上るのです。一方、これが後期の初めには106軒と5分の1に少なくなります。

 このような現象をどう捉えるかというのは、専門家の間でも議論が分かれるところです。

 @単純に人口が増えた結果である

 A季節的移動を伴う生活スタイルに変わったため1世帯が造る住居数が増えた結果である。

大きくは上の2つの考え方ができるでしょう。

 環境的にはこの時期に冷涼化が進み、後期初頭には寒冷のピークが訪れるという背景があります。

 @については、寒くなりつつある時期の約400年間に爆発的10倍にも人口が増え、突如5分の1に減少するということについて、的確な理由を説明できないのが現状です。火山の噴火などの影響は、事実として認められません。食料面では、この時期にトチの種子が多く検出されることが指摘されています。確かにトチノミの利用(もちろんアク抜き技術を伴うものです)はこの時期に広く普及するようですし、複式炉を造る地域とトチノキの分布が重なるという指摘も重要な点だと思います。また、この場合、お墓の数が少ないという事実が矛盾のひとつとして挙げられます。

 Aは住居の増加の説明としては有効なのですが、「移動」の実態を証明する方法が見つかりません。ある山沿いの遺跡の石器と数km離れた川沿いの遺跡の石器がくっついた、などという複数の事例があれば証明可能になるかも知れませんが、現状では空論です。

 人口増大に対する抑制があったか?という御質問ですが、上記の時期の場合を当てはめてみましょう。中期末に増大した人口が、更なる寒さが影響して食糧不足のために5分の1に減少した・・・・・おそらく上記Aをも考慮した場合、5分の1という数字は大げさに過ぎると思いますが、人口や遺跡数が減ったのは事実と考えられます。しかし、この時期になると貝塚が増加するという傾向が見られます。植物質食料に大きく依存していた生活から、海産物への依存度を増大させていくという知恵を働かせたものと考えられます。それには漁具(魚や貝を捕る道具)を改良発展させるという知恵も伴っています。もちろん、みんなが海へ行くわけではありません。サケ・マスといった川漁に依存し、燻製などの加工技術も進化させた人たちもいたでしょう。植物質食料が減じた分を補う努力は各地域で工夫と知恵を働かせて総合的に行われたと思われます。矢の先に付ける「石鏃(せきぞく)=やじり」が大量に出土するのも、狩猟への依存度が以前より高くなった事を示す証拠でしょう。遺跡の分布が植物質食料獲得に有利な高地から低地へ移る傾向が見られるのは事実です。

 「間引き」「口減らし」というのは、おそらく縄文時代には無かったものと思われます。それは、何より「再生」を全ての精神文化の基本に置いて生活しているのですから、子供を「死」に至らしめたところで、また生まれてくるのですから、「再生」と基本的に矛盾するからです。生命というものを何より大切にし、その生命を繋ぐ事が最大の人生の目的である場合、自らの遺伝子を残す方法はなるべく多くの可能性に賭ける事です。死亡する原因はそこら中にあります。幼児の死亡率は放っておいても高いのです。なぜに生命を繋ぐ糸を自ら切る事があるでしょう。

 自らの意思、あるいは集団の意思で、出自集団の生活領域から出て行くということは、おそらくあったと思われます。領域設定が行われていない場所を探して放浪し、どこかで生活領域を新たに開拓する。この場合はその領域における食料不足が要因になる事もあるでしょう。残る集団に未来があるか、出て行く人に未来があるかは、神のみぞ知るのかも知れません。しかしながら、このような行為が新たな血を他の集団にもたらす結果になる事も多かったでしょう。いわゆる「マレビト」として歓迎された場合もあったでしょうね。

 近世に多い「間引き」「口減らし」は「限界」からくるものでしょう。その「限界」をもたらす「枠」が個人レベルで小さすぎたのです。「枠」を制限しているのが政治・経済における制度です。つまり、年貢が決められているので不作になった場合残る食料が当然少なくなるのです。世帯構成員それぞれの口に入る最低限の量以下になれば、みんなで死ぬか、口を減らすかしか選択肢はありません。その他の食料を得ようとしても、全ての土地に所有権や制限があって自由に釣りや猟や採集ができるわけではありません。ここが縄文時代との自由度の差です。縄文時代ではある程度の危険を冒せば広い領域内で何らかの食料を得られる確率は近世よりはるかに高かったと思われるのです。

 それにしてもなぜ区画整理もしていないのに。全国津々浦々に10キロ20キロごとに適当に縄文人が住んでいたのか、神様がそのように人間をふりわけたのだろか。もちろん石器時代から人間は住んでいたからそれもないのでしょう。客観的に言ったら、動物たちの生息原理のように、自然の法則でそのようになった?

→これは、賢太郎さんの仰るとおりだと思います。動物たちの生息原理・自然の法則そのものです。動物も人間も本能的に必ず領域を設定します。現代人も私たちも同じです。家族の中でも夫婦の間でも、学校でも社会でも、みんなそれぞれが本能的に安全だと思われる範囲を領域設定するのです。それがとっても狭いのが現代なのでしょう。本来、それを侵すことなく相互安全を図るのですが、縄文時代はそれが余裕を持って、安全領域を広く持っていたのではないでしょうか。現代は人口が多く領域が狭いがゆえに侵しがちになります。そこに諍いが多発する。よって細目に亘る「法」が設定されるのです。縄文時代にも「掟」があったでしょう。確率高く命を繋ぐことを目的とした基本の「法」です。弥生→古墳→飛鳥→奈良・平安→中世→近世→近代→現代、まさに時代を下るに連れ「法」は細かく多くなってきたのです。それと領域の広さは反比例しているのではないでしょうか。

福島県立博物館
森 幸彦