2012.12.31
建前と現実に思う
佐藤賢太郎

「人間性豊かに、創造力、企画力をつける人間になろう。」いわゆる建前として外に向かって、こうした言葉はどこでもよく使われます。どこからも非難されることのないもっともなことです。

 しかし人間力をつけるということは、言葉を並べることで事足りるのではない。そんなことで創造力や企画力が付くはずはないと思う。人は残念ながら社会的地位や名声をいったん手にすると守りに入る人間が多い。本能的に守りに入るからではなかろうか。

言葉を並べることでは身につかないという理由は、真剣勝負の体験がないといけないということである。

 私の話を聞きたいという若者がいて、それでは挫折の連続人生である私の講演会を開こう、ということになった。幸い会場費をすべて持ってくださる応援者がでまして、若者が実行委員になるよう振り向けた。若者はこの話に乗り気であった。しかし周囲から、そんなことをして責任とれるのかと心配してくださったそうです。

往々にして順調に歩んできた人間は、いつしか無難な生き方を選択する癖がついてしまう場合が多いように思う。

 私は順調に進んだのは高校受験まで、あとは挫折の連続であった。だからと言って人生に挫折したわけでない。人生を輝いて歩いています。やっと軌道に乗り教師として就職できたのに、それを投げ出して彫刻の道を選んだ。この辺から私は無難な生き方を捨ててしまった。人生は一度きりであるから。しかし薄氷を踏むような毎日、崖淵を歩くような人生となった。

しかしこの時が人間力を養う時期であったと思う。厳しい師匠の元で、二度と戻れない人生の選択だった。

 リスクをとりたくないような生き方からは、人間力など付くはずはないと確信する。若者にチャレンジする意欲がないなら、肉体的に若くとも精神的には若者ではないと思う。

「少年よ 大志をいだけ!」というクラーク博士の言葉は有名である。得るには、捨てるものがないと得られない。順調な道ばかりを歩んでいる人にはこれができないと思う。

若者たちは今、長い人生の始まりだろう。その人生にも絶対ということがある。それは誰でもいつか挫折するような人生の壁に突き当たるということである。壁にあたって、その人間が逞しいかどうか試される。勿論一生懸命信じたことに向かって努力して、壁に突き当たることである。その経験は若いときほどいい。それこそ人間性豊かな人間になるからだ。

 建前ばかりに慣れてしまっては人生に感動がない。私は命がけで理想に向けて走りたい、限りある命であるから。

この先、感動し合う人とどれだけ出会うだろう。そんなにはないはずである。だからこそ来たバスに乗れと言いたい。