2011.06.16
震災と農業
坂内克裕

 今回の大地震では我が家の周辺は震度5弱、その後の度重なる余震でも最高で震度4だったため、幸い我が家には被害はありませんでした。したがって、コスモ夢舞台と同じように、友人数人と組んで、宮城県の被災した知人らに援助物資を数度送ったり、福島市やいわき市の友人・知人に米や野菜をお分けすることが出来ました。しかしながら、原発問題では大変な被害をこうむっております。

第一に、「原子力災害対策特別措置法に基づく出荷制限及び摂取制限の指示」というのが事故直後に国から出され、私たちは自分で栽培した畑の野菜類が、県内全域で出荷はおろか食べることさえできない有様が続きました。原発から100キロ以上離れた喜多方市の私の所でさえ、キャベツなどの結球性葉菜類が食べられるようになったのは4月下旬、ホウレンソウなどの非結球性葉菜類は5月中旬でした。そしてそれから1か月経過した現在でも、原発の20キロ周辺の野菜類がダメなのは当然として、50キロ以上離れた福島市を含む中通り北部でも非結球性葉菜類の出荷及び摂取制限がいまだに続いています。これらに関する福島県産品の市場における風評被害は報道されたとおりです。

第二に、米の作付について、当初、県では農作業を当分待ってくれと言っていました。しかし、農業は暦で行うものですから待っていては手遅れになってしまいます。我が家では例年通り大地震の前日に種籾の塩水選を実施していたので、4月5日に種蒔きをし、3日間育苗機に入れ、ついでハウスに並べて苗を育てるかたわら田圃の準備をしていました。そのころになってようやく県全域で土壌の汚染状況調査が実施され、その結果、遂に4月22日付けで政府は総理大臣名で原発から半径20キロメートル圏内の区域及び計画的避難区域、緊急時避難準備区域での平成23年産の稲の作付を控えるよう指示を出しました。これによって幸い我が家では稲作が可能になったわけですが、反面、秋に収穫された米は放射能測定の結果で出荷できるかどうか決まるわけであり、そこで出荷できたとしても風評被害で売れない、あるいは価格が暴落するといった事態が想定されるわけで、悩みは尽きません。現に、6月15日現在でも、茨城や栃木、千葉そして遠くの神奈川までも茶の出荷が国によって止められているという事実があります。

第三に、原発事故はまだ終わっていないのです。事故から3か月経った現在でも、原発直近の町村では、高い放射能汚染に阻まれて、遺体の捜索や瓦礫の撤去が進んでいません。原発問題は10年単位の時間が必要でしょうから、避難民が自宅に帰れる日、そして土壌汚染を除去して再び農業に帰れる日は遠いと言わざるを得ません。

農業は命の糧を生産する仕事です。佐藤さんがコスモ夢舞台の田圃で目指しているように、より安全安心な食べ物が求められます。そのために百姓は、先祖伝来の土地を守り続けてきました。それが一瞬にして放射能という目に見えないものに汚染されてしまう。国の摂取制限が解除されたといっても、それは基準値を下回っただけで、低レベルではあっても土壌汚染がなくなったわけではなく、今後何十年も残ります。そういう事からしても、福島県産品の買支え運動にはとても有難く頭が下がりますが、一方で、小さな子を持つ母親が、より安全なものを求めて福島県産品を敬遠するのも非難はできないと思っています。最近になって、県内各市町村や東京都などが住民からの強い要望によって、独自に多数の地点での放射線量測定をはじめたり、横浜市や前橋市では学校給食用の食材の放射性物質の検査を始めたりしていますが、いずれも長期的で詳細な監視が必要です。

ただ、報道にもあったように、ヒマワリや菜の花が土壌汚染を除去する力があるというように、自然は見えない回復力を持っているのかもしれません。過去のデータによれば、大気圏内核実験が盛んに行われていた1963年当時の大気中の放射線量(セシウム137の降下量)は、今の1000倍あったそうですし、1970年代でも20倍あったそうで、私たちはそれを潜り抜けて生き延びているわけですから。そうするとやっぱり私たちは、そして農業も、自然に生かされているということになります。

田圃では今、稲の苗が何事も無かったかのように例年通りの成長をみせ、青々とした葉を風になびかせています。