2011.04.25
自分も来たバスへ乗ってみる(1
御沓 一敏

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   “来たバスに乗る”とは、計算や理屈抜きで、巡ってきた機会や縁を生かし、即、行動すること。これはコスモ夢舞台の主宰者・佐藤さんの生き方でもある。

HPには義捐金について次のようなことが掲載されていた。

 「私たちは義捐金の用途を次のように考えています。コスモ夢舞台の集めた金額はわずかでありますが、@代表有志がその地を訪ね、被災者の声を聞くこと。A顔の見える形で物資を手渡すこと。B被災者をコスモ夢舞台にお招きすること。Cこれからの生き方を共に考えるフォーラムで交流すること。」

「実際に被災地の石巻。東松島へ行って、知り合いの家の後片付けや支援物資を直接お渡しするので一緒に行きませんか」と声が掛った。ここで考えている暇はない。自分も即、同乗させてもらうことにした。我らが棟梁大野さんも行かれるということを聞き、局面でこの方の智恵が発揮されるに違いないとおもった。

郡山ICで合流してトラックに乗り換えた途端、地震の影響で道路に大きな段差があることに気が付いた。スピードを緩めないと頭が天井につくほど飛び上がる。速度制限も80kmから50kmへと変わる。

仙台南ICからいよいよ、海岸の方へと向かうのだが、進むほどに道路の補修痕が増える。石巻方面は若林JCTを左折と標識が示す。松島海岸ICを過ぎた頃だろうか、右側の田んぼに津波で流されてきた瓦礫や仰向けになった車の散乱する状態が見えはじめる。

道路を挟んで陸側にも同じ状況があるのは、津波が高速道路を乗り越えてきたのか、開口部から回り込んできたのかは定かでない。しかし、これははじまりに過ぎないことが後で分る。

郡山ICから走ること2時間45分、石巻河南ICを降りると待ち合わせ場所には6人の方がいらっしゃった。そこから目的の高橋さんのお宅までは30分だと聞いていたが現地へ向かう車の渋滞で前へ進まない。

被災地現場の見学や写真を撮ることだけが目的で来ている輩もいるとかで、一層混乱の度合いを高めていると聞き、悲しくなった。それと同じようにみられては困るので、カメラのシャッターを押す回数もつい控えめになる。

石巻の海側は地盤沈下で冠水状態が続いていると報道されていたので、作業ができるのだろうかと危ぶまれたが、地盤沈下はあっても全域ではないということが現地に来てみてはじめて分る。

しかし、目的地へ到達するまでには山のような瓦礫や横転したり、折り重なった状態の持ち主の分らない車がまだ、そのままに残っており、車がすれ違うのも難しい。その間を縫うように進むしかない。

“この車は我が家のものではない”、“この家は流されてきたものです”という張り紙がしてあったが、どこから手をつけ、どのように整理していくのか想像の域さえ超えている。
   いままで60数年生きてきた中で、見たこともないこの光景は、筆舌に尽くしがたく言葉もない。

行き先の高橋さんのお宅は盛り土をしてあった分救われ、幸い床上1メートルの浸水で収まっている。しかし、自分の車は出て行ったまま、未だに見つからず、駐車場には3台の他所の車が、コンクリートの花壇にさえぎられ家の手前で立てかけるようにして止まっていたという。

親戚の方々も含めて総勢10名で作業開始、男性7名は外回りを、女性3名は家の中を担当する。
   駐車場の瓦礫の片づけから始まり、ヘドロの除去作業が主である。日に照らされると異臭が漂いはじめるが、これはまだ序の口で、夏場に掛けて更なる試練が待ち受けていることをおもうと胸が痛くなる。

集めたヘドロは乾かすためしばらく放置して、広い裏庭の瓦礫の片付けにまわる。当然のことながら、自宅のモノか外から流れてきたものかの区別は付かない。

昼食後、我々3人は少し水切りができた状態のヘドロを土嚢袋に詰める作業を行う。ここで若い頃、1000袋もの土嚢詰めをしてきたとい大野さんの経験が生かされる。材料を入れてあったポリバケツの底を開け、下から袋を差し込んで上からヘドロを入れる。満杯にした後、袋ごと抜き取るという手順であるが、水を含んだヘドロは重い。この袋を60袋近く積み上げ、掃除をしたところで、駐車場は元の姿を取り戻した。ご主人からは裏庭まで手が廻らないでしょうと言われていたがこれを含めて全て終了した。

家の中のドロを掻き出して掃除をするところまでで終わりにした。翌日も作業をする覚悟はしていたが、あまり、自分でやり過ぎると援助金が出ないといったルールもあるというので、この日で辞することにした。

夜は寝袋を持参して、トラックで寝るという準備をしていたが、東松島市役所にお勤めの大江さん(女性)から自宅でお泊りくださいと言っていただいたという。会津・坂下で行われたグリーンツーリズムで佐藤さんが講演をした折にご縁があり、豊実には2度ほどお出でいただいている。

ご自身は嗅覚だけで動いていますと謙遜されるが、持ち前のパワーとお人柄で、外とのつながり、地域のまとめ役を一手に引き受けている感じである。

食事までご馳走になり、どちらがお見舞いに来ているのか分らなくなった。さらに大江さんの声掛けで3人の男性が集まってこられた。奥様と娘さんを亡くされ、避難場所にいて皆様のお世話をされているという市議会議員の菅原さん、持ち船4艘のうち2艘を流されたが、いち早く立ち上げの準備をされているという漁師の大友さん、仙台箪笥を全工程一人で造られている木村さんは材料や車、家に大きな被害を受けられた方だが、無口ではなく六口と言われるだけあって、それぞれが実行力のある論客でもある。

この度の地震の津波については、一様に誰もが予想だにしていなかったとおっしゃる。広い間隔を置いて二重に植林されている松林の大きな松の木の上を黒い波が越えてくるのを見た時は、空想映画を観ているようで、とても現実の出来事とはおもえなかったという。

7人家族で5人の身内を亡くされてた消防団長さん、それでも自分のことはさて置き人様のために奔走されている方もいらっしゃるという。位置関係や距離その他の条件で被害の度合いが違い、家を失くされた方は家の残った人に対して「掃除ができてよかったね。頑張れよ」と励まし、複数の身内を亡くされた方は「……」と声を掛け合っているという。あまりの話のすごさに合わせる言葉さえ見つからない。

しかし、特に大江さんを中心に集まった方々は不思議なくらい勢いがあり、明るい。さながら、シンポジウムの前哨戦が始まったような雰囲気になる。

佐藤さんからは改めて人間関係の大切さとB「被災にあわれた皆さんをコスモ夢舞台にお招きすること」Cの「これからの生き方を共に考えるフォーラムで交流する」いう提案がなされた。仮設住宅ができ、避難生活をされている皆さんが個別に住み始めたとき、支援物資のトイレットペーパー持参で佐藤さんが講演を行い、さらに交流の輪を広げようということでお開きになった。