2008.08.11
リトアニア紀行5                      
佐藤賢太郎

7月12日夕刻、EU・ジャパンフェスト日本委員会実行委員長の三菱重工 佃会長一行と古木さん、Hさん、Mさん、写真家の松本さん、それと私は、日本大使公邸を表敬訪問しました。大使館職員の出迎えを受け、大使公邸を案内していただきました。明石大使は「ようこそいらっしゃいませ」と一同は応接間に通されました。私たちに「硬くならず気楽にしてください」と言って、ソファーをすすめ、リトアニアの歴史や現状について説明してくださいました。

古木さんは、大使になる以前から明石さんと面識があったそうです。失礼ながら私は、明石さんを大使夫人かと思ったら、大使ご本人でした。ここでもまた、日本女性の活躍を目の当たりにしました。

しばらくして、日本の専属料理人の作った美味しいご馳走をいただくことになりました。そこから見える風景は、リトアニアの美しいランドスケープでした。
   私は明石大使との歓談では、「国際交流で大切なのは、英語を話せる以上に日本の文化をもっと私たちが語れることだと思います」と話しました。
   また古木さんは佃会長に私たちの活動のことを説明してくださり、コスモ夢舞台冊子を手渡してくださいました。
   嬉しいことに、佃会長も関心を持たれたたようで、しばらく歓談させていただきました。「つまらないテレビ番組より佐藤さんのところの方が面白そうだな」と言っていただきました。
   「会長さんのような立場の方にお目にかかれて光栄です。一度、コスモ夢舞台においでいただければなおさら嬉しいです」と、めったにないこの機会に勝手なことを申し上げました。

コスモ夢舞台は県内でも知らない人の方が多い小さな存在です。それを古木さんはこのようにして、人と人を繋いで紹介してくれることに嬉しくなりました。

7月13日午後5時、いよいよ「日本に向けられたヨーロッパ人の眼・写真展」のレセプションです。それまで時間があるので、私は、EU・ジャパンフェスト日本委員会の助成で国際青少年音楽祭に参加する米子少年合唱団の方たちと同行することにしました。彼らが泊まっているホテルを探すのも苦労しましたが、たどり着くとアイルランドのサーニャーさんの元で、アイルランド少女合唱団と合同リハーサルをしていました。彼女とは福島県の三島町でお会いし、食事をご一緒したことがあります。
   今回の案内担当はEU・ジャパンフェスト日本委員会のMさんでした。貸切りバス一台ほどの人数です。代表責任者、指揮者、ピアニスト、もちろん父兄も同伴です。

まずビリニュス市役所を訪ね、市長に歌のプレゼントをすることになりました。佃会長、日本大使、古木さんも同行され市役所一階のホールは人だかりとなりました。そこで日本の歌を含め素晴らしい歌が披露され、感動しました。

その後、私は少年たちとバスで移動し、次にアイルランド大使館に行きました。大使館は大聖堂の目の前で、これまた絶景のところにありました。
   日本大使の挨拶、アイルランド大使の挨拶、佃会長の挨拶が終わり昼食となりました。アイルランドと米子の少年合唱団が交互で歌のプレゼントになりました。
   指揮者はサーニャーさんです。外国で、外国人が日本の「桜」を歌うのをはじめて聞きました。そのとき、私も一緒に「桜」を口ずさみました。
   感動すると鳥肌が立つと言いますが、まさに私もそうでした。言葉は通じなくても心の交流は音楽によってできるものだと、このとき実感しました。
   古木さんは、こうしたことを私に知ってもらおうと招待してくださったのでしょうか。                    

このとき21歳の女性がラフな服装で日本語とリトアニア語の通訳をしていました。そのときは彼女と話はしませんでしたが、日本に戻ってからメールをさせていただくことになりました。

アイルランドと日本の少年たちが、お互いに笑顔で歌を教えあっている光景はほほえましいものでした。ここでも、古木さんたちが奔走して、人と人を繋ぐ活躍をつぶさに拝見させていただきました。

その次は日本大使館への表敬訪問です。分刻みの忙しい移動でしたが、大使館に入る前に時間があり、先ほどの通訳していた、アレクサンドラさんと話しができました。
   お父さんの関係で北海道に住んでいたことがあるそうで、アイヌ文化や仏教に興味があることなどなど上手な日本語で話されました。それにしても、21歳でよくぞここまで勉強したものだと感心します。何だかとても親しみを感じました。

日本大使館で米子少年合唱団が日本の歌を披露し、大使館を後にしました。そのあと合唱団は、国際青少年音楽祭コンサート会場の教会へ移動しました。その後私は、写真展レセプションの会場に行きました。実に忙しい一日でした。