2009.08.14                         
リトアニア紀行8                       
佐藤賢太郎

7月14日、リトアニアでの最後の公式行事は、朝から晩までバスでの移動となった。初めに訪問をしたのはリトアニアの文化省だった。 

担当大臣が出迎えてくださり、佃会長、日本大使と私たちも同席させていただき歓談した。人口338万5000人、日本と比べとても小さな国である。日本の文部科学省へは行ったことがないので知らないが、とても品格があった。佃会長は文化大使として訪問されていましたが、三菱重工の会長、日本経団連副会長としての肩書きもあり、「我が社で作ったとても性能の良い、エコ製品のジェット機はいかがですか」と笑いながらお土産のプラモデルを出していた。

さて昼食です。今日は本人の希望で写真家のハンスさんも同行されました。高級レストランに入ったのでしょうか。なんとそこは日本料理、寿司だったのです。なぜなら外国人の招待客が同行だったからでしょうか。
   リトアニアでの食事は何だかホテルの朝食以外は日本料理が多いようです。招待客は来年再来年の欧州首都開催の方々です。彼らは寿司を美味しい美味しいと食べていました。おそらく自腹ではこんな高価な食事をとてもできないでしょう。

さて昼食を終え一路カウナス市というところに向かいました。日本でいうと東京に対して、大阪といった感じでしょうか。
   ビリニュス以外、今日がはじめてのリトアニア見学です。山はほとんどなく平坦で、湖や森林が広がっていました。ビリニュスを見てリトアニアと決め付けていけないのは、この田舎の風景がリトアニアなのだろう。ずいぶんと遠くまで高速道路を走りました。キャスタスさんはこんなに遠くから出てらしたのだと感謝の思いになりました。 

その間、三菱重工のヨーロッパ幹部社員の方と話をする機会がありました。そしてカウナス市内に到着すると狭い道をバスが入る。そこは杉原記念館でした。
   とても恥ずかしいのですが、私はリトアニア来訪が決まるまで杉原記念館の存在を知りませんでした。一度テレビで杉原大使の生き様を放映されていましたが忘れていました。

記念館に入り説明を聞き、改めて杉原日本領事館代理はすごいことをされた方なのだと実感しました。リトアニアの人びとの間でもその生き様は高く評価されています。

   簡単に説明しますと、第2次大戦時、リトアニア在住のユダヤ人がナチスに命を奪われようとしていた。当時ドイツと同盟を結んでいた日本の立場でありながら、杉原さんは自分の家族や自分の安全を省みず、命の尊さを第一に、6,000人ものユダヤ人のビザを発行し大勢の命を救ったのです。   
   日本人にもこのように誇るべき人物がいたのだと感動しました。コンパクトではありますが、そうした説明がなされている記念館でした。

   そしてこの維持は記念館を訪れた人びとの募金によって維持されているのです。技術やお金、スポーツで日本を誇るより、杉原さんのような精神を持った日本人の存在を海外に伝えたいものです。

さて次の訪問地に移動のため杉原記念館の玄関を出ると、何とアレクサンドラさんとばったり会いました。もう一度お会いし、私の作品集を手渡したいと思って、作品集を一部カバンに入れておいたのです。文化省で古木さんが大臣に渡そうと思って「何かあなたの冊子持ってきていませんか?」と聞かれたとき、「ありません」と言って渡さなかったのです。

   ここで公表しますが、こんな不真面目な私を古木さんは怒るでしょうか。会えるともわからない彼女に渡す為にとっておきました。それが実現するとは実に不思議なことです。神様の導きでしょうか、そのときアレクサンドラさんから名刺を頂きました。私は名刺も何もなくしてしまってありませんでした。国際親善のため、帰国したらメールをしようと思いました。

ところは変わりカウナス市役所、カウナス市長の表敬訪問です。リトアニアの市役所はこういうところなのかと思いました。
   入ってもいいのかためらっていると、古木さんから入ってと促され、大会議室に入りました。佃さん、日本大使の明石さん、古木さんは同じように挨拶をされていました。

外に出るとまた嬉しい感動が待っていました。今度は若い女性ではなく、何と彫刻家のキャスタスさんが道路で立っていました。「えー如何してキャスタスさんがここに居るの?」確かに私はカウナスに行くとは言ったのですが、何処で何時にと言うところまでは伝えていませんでした。
   先ほど市役所で通訳していた男性とキャスタスさんは知り合いだったのです。その方は「キャスタスさんの彫刻が道に設置されているから見て欲しいと」通訳してくださいました。

次は日本現代アート展が開催されている美術館のレセプションに向かうことになりました。キャスタスさんもバスに乗りました。そこには、日本人の音楽や作品を見学する多くの人が集まっていました。

   さて時刻が迫り、帰る時間となりました。キャスタスさんとのお別れです。バスに乗るとき彼は、リュックサックから重いものを取り出し、日本に持って帰っていただきたいと渡されました。これは私に、そして西会津の方々へのお土産にと手渡されました。

   私は感動しました。言葉は多くないのにその思いは熱く、お礼をしたいと重い酒やチョコレートを届けてくださったのです。お土産を何も買っていなかったのに、私の荷物はいっぱいになりました。彼のその心にとても感謝しています。
   そばでその光景を見ていた古木さんは、嬉しそうに「よかったですね」と言ってくださいました。

ちなみに、帰国後お礼の文章を英語で送りましたが、今のところ返事がありません。言葉以上に、想いの方が強い人なのだと思いました。