2009.12.

2021.7.9
副産物
佐藤賢太郎

 まず、縄文アートミュージアムを「佐藤賢太郎美術館」と命名、最終決定とします。ふくろう会館&アートギャラリーは「陶芸館」にしました。蔵・銀河は「談話室」にしました。
 さて、縄文ア―トミュージアムをつくるにことになり、法務局や農業委員会をスタートに難題がもち上がりました。
 山の木を切る条件に宅地権を切ることになり同意書を頂き、そればかりか伐採届がいること、不在者がいて時間がかかります。そんなことがあることすら知りませんでした。また村の木を切るには、そこが自然公園だという方もいて作業がストップしてしまう。どこが公園なのかと言いたいです。結局水面だけが自然公園と分かりました。自分の杉林は凄い量の杉の数ですが、無料で差し上げ、代わりに切り代はタダになります。縄文つくりに支援していただくことになりました。しかしこのことは「思いを切らない」とできません。
 我が家ばかりか、こうして船渡地区の風景は大きく変化してきます。そのつど業者との話し合い。役場へ何度も行き公図とにらめっこの毎日。それには人間力がないといけません。縄文の研究者はいても実践者は稀です。小林達雄先生はじめ、加藤春一さんとの出会は縄文つくりの原動力になって促進しています。個人力でなしています。私の最後の仕事です。彫刻家として集大成です。
 なお、私は縄文の専門家ではありません。対談には専門家が来ますが、しかし恐れてはいません。私は自然体です。