彫刻の力と土地の恵み――「コスモ夢舞台」を応援する
藤嶋俊會

 私が最初に佐藤さんと出会ったのは1988年6月の東京での個展のときであった。その展覧会を新潟日報の「県人アート」に取り上げた。22年前のことで随分昔のことになる。それから東京で個展を開くたびに作品を見るのを楽しみにしていた。その後何回か日報にも書かせていただいた。石彫の作品は「飛天シリーズ」のように女神をモチーフにした大作と、身近な生活から発想した小さな動物や昆虫などを題材にした小品群に分類される。そこには佐藤さんの日々の喜びと希望が紛れもなく凝縮されていた。それだからこそそうした彫刻は生き生きとして生命感にあふれている。

その間ふくろう会の活動や地元豊実での里山アート展の開催、また2005年のコスモ舞台に招かれて佐藤さんの郷里の空気をたっぷり吸うという思い出もできた。そうした往来や日報の記事、あるいは東京での個展の際の話しなどを通して、着々と佐藤さんの夢舞台が実現しつつあることが断片的だが伝わってきていた。ギリシャでの彫刻シンポジュウムに参加する話とその体験談をまとめた書物の刊行も愉快な話題であった。佐藤さんはますます阿賀豊実で本領を発揮しているなという印象を抱かせつつあった。これが世にゆう団塊世代のパワーなのかと改めて思い知らされてもいた。あるいは縄文人が住んでいたといわれる土地の地霊が佐藤さんの身体にも流れているものと思われた。NPO法人化の記事も日報を通して知った。

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 以前も話したことがあるが、私が生まれた場所は会津若松市内の母の実家で、小学校1年生までは荻野駅から山を上り下りしたところにある新郷発電所の社宅に住んでいた。父の勤めの関係である。3年前弟妹3人で半世紀ぶりに訪れてみたが、発電所の建物と彫刻のような水門の構築物は記憶のとおり残っていたが、社宅のあったと思われる場所は夢の跡であった。故郷や育った場所をあとにして都会に住み着くことになった私には、故郷の場所が持つパワーは備わっていない。そこが残念である。もちろん会津若松の市街を歩くと、懐かしい通りや街並みが、現在の風景と重なって見えてくる。ただただ懐かしさだけである。

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 したがって佐藤さんが故郷阿賀豊実で展開する夢舞台は、彫刻家としての力だけでなく芸術プロデューサーとしての総合的な力が発揮されているといってもよい。将来を見越した組織や運営体制の整備、境界を取り払ったイベントの実施、地域に根ざした生活行事の計画など、職人としての彫刻家ではできないことだらけである。土地と場所を得て、それまで眠っていた底力が全開する事例を佐藤さんの人生に見ることができる。それには若いときに培った彫刻家としての力が中心に備わっていたからだということを強調したい。阿賀豊実に蒔かれた彫刻の種が今大きく育ってきた。しかし佐藤さんの作品は、実は彫刻だけでなく、阿賀豊実に育ちつつある文化そのものであるような気がする。(2010年11月5日)

(美術評論家)