2008.12.02
はじまりの根 
長谷川千賀子

里山アート展にむけての現地制作でのとき、偶然体験学習の中学生徒さんたち4人が滞在していた。

朝薪で炊いたごはんを食べたあと、現地制作するわたしたちのお手伝いをしてください、ということになる。

雨のなかを、限られた時間のなかで何とか40メートルの壁画を描いてみようというのだ。場所はSL列車の

泊まる駅近くの田んぼ沿いのセメントの崖 水性の絵具は当然ながら、雨で流れおちる。雨がかからない

ようにと、ブルーシートをはこび材木をわたして、中学生の皆さんに にわか作りの屋根をかけてもらう。「今

日は雨がふったし、他の民宿に行ったこどもたちは、きっと外での作業はお休みでしょうにね」とは佐藤さん

のお話。カッパすがたの生徒さんたちが、いやそうな顔ひとつみせず、作業にあたってくれた。

壁画のドローイングのできばえは、今ひとつではあったが、夕方になっての生徒さんたちのほがらかな生き生

きとした様子が 忘れられない。帰る日の朝、もってきた粘土を手に握れるくらいずつを渡して、「やまの神

様をつくってみようか」と話してみると、楽しそうに集中して、あっという間に力作が完成した。

 

コスモ夢舞台では、近い将来農業や環境整備を通した体験学習のインストラクタ―を育成する場へとつ

なげていくことを考えているという。

自然のなかにあって、土地を耕したり、家をつくったり、火をおこし食べるといった、いわば生活の営みの根っ

こと、生きていくことを切り離していくことはできない。しかし現在、機械化 IT化が加速的に進み人間自体

の細胞さえコピーされるなかで、生きる実感(手ざわり)がどこかでしぼんでいるように感じることがある。そん

な中アートを手がけることが、生きる力となることが数十年彫刻をつくりつづけてきての実感だ。

 

一日二日の体験が心のなかに、ちっちゃな風を起こすことだってあるかもしれない

縄文の人であったわたしたちの遠い記憶へと、

かすかではあるが、風がふく—

どんなに複雑におもえようと

未来のなかに 過去も横たわっている

 

さて、縄文館には阿賀の里で発掘された土器の破片も展示されている。

縄文の土器の美しさ 洞窟の壁画 わずかに残る破片から、生きる力として、祈りとして、アートが必要と

されてきたことが、うかがえる。はじまりのアートは大地を耕したり、自然の音を聞いたり、うたったり、粘土を

こねてみたり、そんなこと すべてがひとつだったのではないだろうか。

 

ひとつのはじまりの根からうまれてくる

景観をつくること、田を耕すなかで、アメンボが泳ぎだすこと、川の音を聞いてみること、木を切って家を建て

ること、作品をつくること、イメージが前へと働く時、すべてがアートだ。ひとつのことばだって、イメージとういう

手のはたらきをもった時、生きる力(勇気)となる。そんな「はたらき」が「アートの力」なのではないかとおも

う。 

今回は絵のほかに、「イメージの手」のかたちのブロンズ作品を、阿賀で昔よく使われていたというソリの上に

のせてみた。こどもたちが昔つかって真っ黒になって光っている愛らしい小さな椅子も作品台になった。古い

ソリからも椅子からもたくさんの物語が聞こえてくる。古いものと新しいものがはなしをしているようだ。

はじまりの根をおろしながら、里山アート展は出会いのなかでもうひとつの祭りをつくりつづけている。