2012.4.27
南相馬祭礼
佐藤賢太郎

南相馬生まれの森幸彦さんと会津のひょんなところで出会い、2007年の縄文シンポジウムをきっかけに付き合いをさせて頂いた。

南相馬はそれこそ原発30キロ圏内もあり、津波と原発で大変な状況にあった。そのことを知るのに時間がかかり何も支援できていなかったことを申し訳なく思っていた。

森幸彦さんから一通のメールをいただいて被害の大きさを知り、会津若松で会うことにした。4月23日南相馬の山田神社で祭礼をすることになっていると教えて頂き、私は駆けつけることにした。仲間にも声をかけたところ、10名の参加者があり南相馬に向かった。

川俣、飯館村と車が進むにつれ異様な光景が目に入った。緩やかな山々に桜は綺麗に咲いている。人家があっても人がいない、田んぼや畑にはもちろん人はいない。農作業が一切できない状態であった。

ようやく海辺の小高い丘にある仮の山田神社に到着した。後で知ったのですが、驚いたことにこの高い丘に津波が上がり一か月間海であったそうです。想像ができません。宮司の森さんは「この世に神も仏もいないのかと思った」と述べました。

道が分かりづらく、私たちが着いたのは祭礼開始の直前であった。幸彦さんが宮司の衣装をされて進行されていた。震災の状況を神様に報告し、暮らしが復興するように願ってのお祓いである。元の社殿は流されなくなっていた。そのことを知った熊本の宮司さんが、がれき処理のボランティア活動をしながら社殿寄贈に奔走することになり、球磨工業高校より宮大工養成の作った社殿をいただく手配をされ、それが実り山田神社に収められた。また大阪より東大阪女性経営研究会の方が神殿に納められる鏡を寄贈され、東京より支援者が出席されるなど、多くの方が南相馬に入りました。

私は震災後石巻や東松島に入ったが、南相馬には今まで何もしていなかった。せめてもこれから人の繋がりをもちたく参加させて頂いた。祭礼の後地元の「なおらい」が行われ、私たちも参加させて頂いた。私たちの分まで料理が用意されてあった。ここで村の方と語り合うことができ、森幸彦さんの人と人を繋ぐその行動に感謝していることが理解できました。

そして津波と原発によって村は二分してしまった。若い者はいなくなり消防団の組織できなくなったそうです。勿論農業は99.9パーセントできない状態である。しかしながら、残った村人はここに田んぼを復興しようと決意されていました。

 この祭礼に参加したことで、津波と原発がいかに被害を大きくしたか一同肌で感じられました。そして、原発再稼働はしてはいけないということです。節電すればいい、24時間営業など辞めたらよい、政治家が言うように真っ暗になんかなりません。大震災の爪の跡はまだまだ続くでありましょう。

せめて細いながらも、私は南相馬の方々と繋がりをもちたい、知り合いのあるところに繋がりをもち続けたいと考えています。

更に4月29日単独で仙台に行き、石巻で被災された方の励ましになればと会うことにしています。

最後に一言、震災に遭遇しなかった私たちは、被災地の方々の暮らしを忘れてはならないということです。