「第15回EU・ジャパンフェスト」を終えて

EU・ジャパンフェスト日本委員会
事務局長 古木 修治

はじめに
    世界は激しく変動している。
    グローバル化の進展にともなって、国家の単位では解決困難な地球的規模の課題も続出している。現代社会はますます複雑化し、マクロの見地で世の中を俯瞰しても、ミクロの領域で何が起こっているのか、推し量ることは極めて難しくなってきた。そんな時代にあって、私たちの関心は、もっぱら経済、安全、健康、そして環境など日常的課題に向けられ、日々のトップニュースに一喜一憂している。しかし、人間の願望が無限大であり、私たちは満足することを知らない。よって、日々の問題が完全に解決する日は永遠にやってこないのである。

一方、幸福か不幸か、金持ちか貧乏かに関わらず、人間の一生の時間には限りがある。この世に生を受け、やがて生涯を閉じるという厳粛な運命を万人が共有している。どんな生涯を送りたいかという根源的な課題は、いつもは鳴りを潜めているように見えても、常に各人の根底に存在し“微弱電波”を放ち続けているのである。

当委員会の設立から15年の月日が経過した。この活動が目指してきたことをあえて短く言い表すならば、この“微弱電波”に呼応し、「アートを通じて、私たち一人ひとりが、生きることを見つめ、考え、語るといった行動への支援」である。果たして、どれだけ前進できたのかは分からない。「辿り来て、未だ山麓」と落胆することもしばしばである。

ここでは、現場の体験で遭遇した「問いかけ」に対し、私が考えてきたことを述べたい。

貧困とはなんだろう?
   マザーテレサは「貧困」について、こんな言葉を残している。
「私たちは忙しすぎます。微笑を交わすひまさえありません。
微笑、触れ合いを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です。」

第二次世界大戦終結後、瓦礫の山のウィーンにあって、市民が最初に再建を渇望したのは、「国立歌劇場」であった。この史実を日本が戦後たどった道のりと比較してみると考えさせられることは実に多い。

戦後、日本は奇跡の復興を成し遂げ、今なお経済大国であることに間違いない。しかし、その繁栄の陰で毎日100人近い自殺者がいる国でもある。学校や家庭でも精神的な貧困に端を発した「いじめ」や「虐待」が少なくない。物質的な豊かさを追い求めてきた私たちが、見失ったもの、置き忘れたものは何か。いったい貧困とはなんだろうか。改めて、その問いに向き合うことが求められているのではないだろうか。

お金とアートの関係について
   世の中のアート活動を見渡し二つに峻別すると、それは「元気溢れる」と「元気ない」とに分かれる。あまりにも乱暴な区分で、内面や本質の洞察なしに、表面的な分類でしかないことを承知で、あえてここで触れたい。

確かに「現金」は私たちを「元気」にする。アートに関わる活動も、その例外ではない。潤沢な資金に恵まれた活動、資金を保障された活動(もちろん稀有だが)は、エネルギーが溢れているようにも見える。しかし、そのエネルギーがアートそのものから湧き出てくるものかどうか、疑問に思うことがある。何故なら、行政や企業からの資金が打ち切られると、途端に活動は勢いを失う例を見かけるからである。

反対に「資金不足」は私たちから「元気」を奪う。アーティストもまた同様だ。公的助成金申請システムは極めて煩雑だ。申請者は役所対策に追われることが多い。役所には助成金交付の絶大なる権限がある。しかし、役人は助成申請書類の記入方法の完璧さには厳格でも、アートの質を理解できる人材は少ない。したがって、役所にとっての判断基準は、知名度とか受賞歴といった、言わば借り物の物差しか術がないのかもしれない。

最近、アート活動における資金調達方法について、様々なセミナーが開かれるようになった。「良い企画書の書き方」、「企業のメセナ担当者へのアプローチ方法」などのテーマだと会場はいつも満杯だ。私も何度か参加してみたが、その熱気には驚かされる。しかし、何かが足りない。そこから思い浮かぶのは就職セミナーだ。知名度の高い企業ほど人気が高く、就職ならぬ「就社セミナー」と言い換えることもできる。だから、「面接の達人」などのテクニック本が重宝される。二つのセミナーに欠けているものは、本質的な問いかけである。結局「アートとは・・・」、「職業とは・・・」という根源的な課題が欠落しているのではないか。

アート活動において、資金不足を嘆く人は実に多い。そんな中で、村上隆氏のように、アーティストを起業家としてとらえる考え方は新鮮にも映る。(「芸術起業論」・幻冬社) 私はアーティストが正当な評価を受けた結果、お金持ちになることになんの異論もない。しかし、アーティストにとって、アートは金儲けの手段ではないと信じる。「お金」という価値基準に対して、「お金では表せない価値」がアートには存在するからである。アートは社会と時代を俯瞰し、対峙する存在にもなりうる。そして、そこに存在する矛盾、怒り、喜び、救いなどといったあらゆる価値や考え方に深く関わっている。概して、アーティストは、必要以上のお金を必要とせず、彼らにとっては、創造の喜びが物質的な充足感を上回るのではないだろうか。

つまるところ、アートに不可欠なものは、溢れる情熱と高い質である。資金不足を嘆くとしたら、その前に自らの情熱不足に目を向けるべきではないだろうか?

「アートによる町おこし」ってなんだろう。
   アートが盛んであることは、その地域の魅力に連動する。結果として、観光客が増え経済波及効果をもたらすことにも繋がる。その一例がフランスである。この国では、民意によって長年にわたり政府が芸術文化を支えてきた。それは、国家戦略として位置付けられ、その積み重ねによりフランスが文化国家として世界の憧れの的になった。年間8千万人を超えるという世界一の観光客数からも明白だ。この文化戦略は着実にフランスの国家財政に大きく貢献している。なにしろ、フランスの消費税率は19.6%。海外からの訪問者が滞在中に落とす税収は膨大な金額に上るのである。しかし、この場合、アートは経済波及効果を念頭にした手段ではなく、あくまでも結果にすぎない。

昨今、日本では自治体の財政逼迫や過疎化もあり、地方都市で「活性化」が叫ばれるようになった。その一環で、「アートによる町おこし」という取り組みをよく耳にする。一見、斬新にも聞こえるが、私には違和感がどうしても残る。本来アートは、人間の内面の豊かさや精神的な価値に関わるものである。数値で表せるものではないし、商業主義と相いれないことの方が多い。一方、「町おこし」とは経済波及効果への期待に軸足が置かれている。すなわち、「儲かるかどうか」であり、精神文化と直結しているアートとすぐに連動できる性質のものではない。

  利害関係から始まった人間関係は、なかなか深まっていかないのと同様に、アートが経済波及効果を前提としている限り、そのアートは本物にはなりえない。アートがその地域の生活の中に時間をかけ、根を張ってこそ地域の「活性化」に繋がる。急いで結果を求めても、そこには答えは見つからない。「過疎化」を嘆く声もよく聞かれる。しかし、「過密化」が薔薇色の世界であるとも思えない。もう一度原点に立ち戻って、「アートによる町おこし」について考えることが求められている。

「人づくり」って何だろう? その「幻想?」について考える。
 「お金」や「モノ」の力で事態が好転しなくなると、「人づくり」という発想が出現する。確かに、世の中の多くの問題を解決するのは人間次第だ。しかし、苦境のなかでいったい誰が「人づくり」の先頭に立つのか。地域再生には「まず人づくりから」という声も方々で起こっている。地方首長選のマニフェストに「人づくり」は定番のように登場するが、極めて厳しい再建が求められる事態に向き合い克服してゆくには、強固な意志と行動力を伴う人材が必要だ。重ねて言うが、素朴な疑問として、誰が「人づくり」の先頭に立つのか。「公僕」が死語となりつつある行政に、その指導的立場を期待することは極めて困難だ。タイタニック号の甲板上で椅子を並び替えても、船の沈没は避けられない。首長が主張する「人づくり」は、問題のすり替えや先送りでしかないのだ。まさに大いなる幻想だ。

では、「人づくり」なくして、どんな手立てがあるのだろう。それは、「人材の発掘」に他ならない。当委員会の活動を通して、私たちは多くの素晴しい人材に出会うことができた。彫刻家の佐藤賢太郎さんは、数年前に故郷の新潟県に戻り「コスモ夢舞台」という桃源郷づくりを始めた。行政の助成に頼らず、地域や全国から集まる仲間とともに手作りで美術館や交流会館などを建設し、「里山アート」展をはじめ、数々の情熱あふれる地域活動を展開している。また、鹿児島県の志布志市松山町には、「やっちく松山藩」という地域活動団体がある。20年前に設立され、地域挙げての取り組みでは、「夢を語り、それを実現すること」を積み重ねている。毎年行われる「秋の陣」祭りには、壮大な「一夜城」が出現し、町の人口の十倍もの人々で賑わう。構成メンバーは実に多彩、町内のあらゆる人々が立場を超えて参画している。数年前からは、国内外の音楽団体を招き、「青少年音楽祭」も展開してきた。飾らない、気取らない、ありのままの生活の中にヨーロッパからの音楽団体を受け入れ、自然体でその活動を楽しんでいる。

彼らは私たちが出会ったほんの一例にすぎないが、かつて福沢諭吉が生涯貫いた「国を支えて、国を頼らず」という自立した姿勢に共通するものがあり実に心強い。

ところで、当委員会のプロジェクトの一つに、ヨーロッパで活躍する写真家たちが現代日本を切り撮る「日本に向けられたヨーロッパ人の眼」という活動がある。開始して9年。すでに30の都道県で撮影が終了している。日本を訪れた写真家たちが向けた異なる視線。そこから、生まれた作品は、その地で日々の生活を営む人々にとっても驚きや発見となる。写真展に連動して「一枚の写真から」というテーマで実施されるエッセイコンテストでは、実に内容の濃い作品が、地元住民から寄せられている。何でもない日常の背景にある事柄を深く掘り下げ、私たちの魂を揺り動かすようなエッセイも少なくない。そこには、日本の「ランキング文化」とは異なる彼らの屹立した精神性が、顔を覗かせている。「人づくり」を唱える前に、日本の津々浦々に散在しているダイヤモンドの原石のような人材に出会うことが先決だ。

終りに
   15回EU・ジャパンフェストの活動として、当委員会が支援したプログラムは、ヨーロッパ、日本そしてアジアの各地で実施され、その総数550を数えた。中には、まだ知名度や評価が高いとは言えない活動もある。しかし、多くは自立を目指しながら展開している活動であり、当委員会は、これらのプログラムを民間企業から浄財を得て支援している。ここでの企業の浄財は、言わば荒れた大地に注がれる水のようなものである。地中に埋まっている種子に、この水が注がれる。そこから、芽が出て、苗となり、樹木へと成長し、いつの日か自力で広大な森へと発展することを私は強く願っている。

   これからも、情熱と才能にあふれ、強固な意志をもつ種子と出会っていきたいと思う。やがて、森や肥沃なる大地へと成長してゆくことを信じ、荒れた大地で、水を注ぐという役割を私たちは続けてゆきたい。そこに出現する大自然の豊かさこそ、現代社会に欠如している「精神の豊かさ」に他ならないのではないだろうか。

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夢は見るだけのものではない。

夢は語るだけのものでもない。

夢はそれをかなえようとする

心意気にあるのだ。

「ラ・マンチャの男」より

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