2007.01.19
働くについて

ふくろう会の森紘一さんから夢舞台住人を読んで「仕事と役割」とメールをくださった。
仕事=労働=金銭=つらい事このように現代では受けとめられることが多い。その点について背反するところがあるが、働くという事について他との関係と感じているとあった。

私は実践倫理というところで働くと言う事をもっと広い意味で「はたらく」という言葉の意味を学んだ。そもそも「はたらく」とは「傍を楽にする」と言う意味がある、それが真の働くでないかということです。明治以後西欧思想が定着して今日のような思想になってきたような面があるのも頷ける。

ところで内山節氏の「農の営み」にあったように農村風景には仕事場と娯楽と住まいと接客は共存しているとあった。区切りがないと言う事である。村の人たちは出荷をするわけでなく自分の家で食べる分の野菜を作る。いや有り余るほど作る。そして隣の家に上げたりしている。野菜が交流、交際の元になっている。その野菜つくりであるが、労働としては捕らえていない、健康管理、精神管理になっているようである。

自然と暮らすことが自分の心を安定させる事になっている事がわかる。特に定年退職後はその意味が大きくなる。勿論実用性もある。縄文時代もそのようなものがあったのでないかとも思ってしまう。郷里に帰ってきていつでもこんな風にして縄文人の生き方がふと頭に浮かんでくる。村人の集会に参加したりすると縄文人、人間の原点の淵を見る思いである。

さて「はたらく」ということを仲間とのことについて振り返ってみる。つまりコスモ夢舞台つくりについてである。11年無報酬で建設にあったってくれた仲間の行為についてである。それは軽労働ではない、どちらかと言うと重労働であった。命令されたわけでなく、金銭をもらうわけでもないのに続けてこられた。奥さんの抵抗もあったとも思う。「夫のロマン妻の不満」我が家はその典型であった。ちょっとおかしくなると何時も家内と対立してしまう。ならば他人である仲間の妻方は理解できない方も未だいるはず。それなのになぜ続けてこられてか。一口に言えないと思う、しかしはたらく=楽しみ=傍を楽にするということがそこにはあったとおもう。金銭の授受がないからこそここまで続いてこられて面もある。ここに高い理想とロマンがないとできないし、本の少しのユトリモないとできなかった。何よりも精神的豊かさがないとできなかったと思う。それが「はたらく」と言う精神的、受け止め方と思う。紘一さんの言う役割と他との人間関係がそこにつながる。                                                                                       (佐藤賢太郎)