2008.03.16
父の49日法要

田舎にもどって村の様式に従って喪主として葬式を執り行った。埼玉に居た頃は友人知人の告別式に線香を上げ会席するだけであった。今までは全て村の交際は父が行っていて関東で暮らしていた私は何もわからないのであった。田舎流に喪主となったら大変だろうなと思っていた。死亡確認から如何してあんなに早く葬儀の準備が出来るのか不思議であった。

 父の場合死亡確認をお医者さんがして、村の親戚が集まり葬式の段取り、火葬場、お寺さん手配をしていただき、葬儀屋さんと打ち合わせ、親戚初め村の方に葬儀の日時のお知らせをする。この短い時間で整理整頓が出来ていない我が家で行う葬儀の準備は大変である。

全て順調に運んで翌日火葬が出来て、その日の夜村の方全員が自宅に集まり念仏をしていただく。そして3日目告別式となった。そしてその日忌中といって親しい方を招いて料理屋さんで食事をします。忌中とは本来の意味は喪に伏すということであるが村では会食をすることになっている。以前は食事も自宅で行ったため賄いは大変であったようだ。1週間もかかってしまったらしい。なくなった日から一七日二七日三七日といって一週間ごとに村の親戚の方が集まって線香を上げてくれる。そして49日を迎える。

納骨は3月16日としたが雪の残る豊実であり、親しい方に手伝っていただき除雪車で道を開けていただいた。お墓の周りは私がスコップで除雪する。翌日家内と一石五輪の塔をブラシで磨いた。

実はこの一石五輪は私が彫刻家の修行の最後に師匠が一石五輪を作ってよいと許可された作品である。弟子生活の終了に唯一許可された作品制作であった。なぜ師匠は一石五輪を作ってよいと言ったかわからない。私は郷里に送り父と設置をする業者と私、家内4人で設置した。なお佐藤家の書は父が書いた字で、私が石を彫ったものです。そのお墓に父が入ることになりました。感慨深いものがある。

父とは離れて暮らした日々でありまして何ほど父を助けることもなかった。心配ばかりかけたと思う。せめて49日には父の写真をパソコンとプロジェクターで映像にしみんなに見ていただこうと考えた。そうして選んだ写真を仲間のMさんに送りましたら動くようにしてしかも、ナレーション入りでCD「佐藤忠市を偲んで」を作って下さった。ありがたいことであった。

納骨が終わりCDを披露しましたらお坊さんが大変喜んでくださり「いい物を残しましたね、きっとお父さんも喜んでいられると思います。」と言っていただいた。その後の会席でも中にはいいのつくったねと言ってくださった方もいた。新しいプレゼンテーションである。里山アートより受け容れられることだと確信した。

この年まで仏事の経験がなかったことは感謝すべきことです。ともあれ村の方々の協力をいただき49日を終え一区切りがつきました。(佐藤賢太郎)