2008.02.14
ルーツをたどる 

父が死亡し、世帯主変更届けのため役場に行き戸籍謄本を見ることになりました。今まで父の先の先祖家系図が明確になっていなく、これを機会にこの佐藤家はどのようになっているのか調べました。

 すると我が家の戸籍は江戸時代、(8代会津藩主松平容敬就任、英国捕鯨船江戸湾進入頃)文政6年1809年生まれフン母先祖、父方次平先祖(生まれ不明)から始まっていました。次に家督相続は(シーボルト事件)文政11年生まれの鉄次郎と妻ハマ(全国で天保の大飢饉、大塩平八郎の乱)天保7年生まれ。次の家督相続は(お由羅騒動、孝明天皇海防勅諭を下す頃)嘉永2年生まれ忠吾、婿入籍、妻サノ(ペリー浦賀来航)嘉永6年生まれ。次に相続は婿、多源次明治2年、妻サヨ明治6年生まれ。その次の相続が私にとってのおじいさんとなる松美(わずか39歳没)明治26年生まれ妻ツメとなっていて父がその次に家督相続となって私に来ている。
  この地域には珍しい現在残っている土蔵は上棟式に書かれたたであろう柱に○政との文字が残っている。したがって文政でなく安政時代に作られたものと推定されました。永大永劫という名前を頂いた佐藤家は豊実船渡で佐藤家の本家であったようです。今佐藤家の分家はほとんど住んでおらず、各地に移り、我が家しか残っていなくなりました。家の栄枯盛衰をルーツ、我が家を見ても解かってまいります。

 この以前に戸籍などはなく、お寺の過去帳だそですが、これも不明であります。しかし今生きている人間は誰もが先祖は縄文時代、それ以前石器時代からの子孫であるわけです。ただ系図などはありません。ただ天皇家はさかのぼれます。

 しかし驚いたことに我が家に生まれた男が代々その血を受け継ぎ相続したものと思っていましたら、お婿さんが2人入っていました。そして面白いことに他家の2軒二組おなじ家から婿養子、妻として佐藤家に入籍していました。

ところで婿入りした先祖の家があるのか大変興味があったので、私は今まで聞いたこともなかった(阿賀町上川村のIさん五男から婿)その村に先祖を尋ねて足を運びました。しかし解かりませんでした。それにしても歩くことしか交通手段がなかった頃、如何してどうして縁をつないだのだろう。そして何日もかけ、遠くの道を徒歩か馬かでこられたのだろうと不思議に思ってしまった。そして家督を継ぐべき長男が家を出て長女が跡を継いだりしている事もわかりました。またルーツを探してみたいものです。

  このことから先祖をたどると、全国のあちこちからいろんな地が混じって今日の自分が居るのだと解かりました。人類皆兄弟となります。日本人のルーツは移動して日本にたどり着いた北京原人の中国か東南アジアかそれともメソポタミアかモンゴルか。日本人の顔を見るとともかくいろんあ血が混じっていることは確かである。それともう一つどこから移動して混血になった土着日本人ということも確かにあると思いますが、世界中に石器時代か縄文時代以前に人間が(アメーバーのように)自然発生したということもます考えられます。そうでなければこんなに均等(遺跡発見に見られる証拠)に人間が日本中存在していないだろうと思います。(佐藤賢太郎)